愛本刎橋(2)の続きで、さらに刎橋の関連した資料から抜粋して説明します。
館内には、当時の多くの古文書が展示されていた。
まず、愛本刎橋のまつわる伝承として、茶屋伝説がある。刎橋が架橋されてから360年経ち、その間、橋詰めには道行く人の疲れをいやす休みどころとして茶店は繁盛したという。
1828(文政11)年には「泊と三日市の間に相本の橋珍しき架け橋あり。(中略)川端の茶屋ちまき名物なり」や1909(明治42)年にた「島田に別れて愛本の橋詰の茶屋に休む。対岸に笹巻の団子を売る店あり。取り寄せて食べる」など記されたものがある。
愛本橋の近くにあった平三郎茶屋におみつという娘がいた。ある日娘がいなくなった。3年後に突然おみつが笹の粽をもって帰ってきた。そして産気づいたので身を二つになろうとして、絶対入ってこないように念を押して納戸に入った。母親は気になってそっと障子から覗き見ると蛇に変わっていたので思わず大声をあげた。元の姿に戻ったおみつは「もう二度と帰ってくることはできません。」と言い、愛本橋の袂に来ると大蛇に化けて、水深深く姿を消したという。
おみつを祀る愛本神社のご神体は江戸時代後期の浮世絵師池田英泉の描いた「花魁(おいらん)の描いた版画で、青の有名な画家ゴッホも描いている。これは当時、日本の浮世絵に興味を持っていたゴッホが「パリ・イリュストレ」誌に掲載された。英泉の絵を模写したものである。
ところで、今年の10月に完成予定だった「キャニオンルート」、すなわち宇奈月温泉から黒部トロッコ電車に乗り、その後、エレベータなどを使って「欅平駅」と「黒部ダム」を結ぶ「黒部宇奈月キャニオンルート」ができるはずだったが、「能登地震」のため遅れていて、来年完成の予定である。
これが始動すると、黒部市の宇奈月温泉に多くの観光客が来ると思われる。そして温泉のすぐ近くにあるこの「愛本刎橋」も脚光を浴びるはずである。そうなると地元としては、どうしても「愛本刎橋」を復元したいところである。
金沢市にも「愛本刎橋」に関連した橋がいくつかあったと聞いている。
まずは、兼六園内に11代藩主が作ったといわれる「愛本うつし」は、現在の噴水とことじ灯篭の間付近にあったと聞いている。
下図は1792(寛政4)年作成の「兼六園蓮地庭之絵図」で、中央の橋が「愛本うつし」である。
尾山神社の幕末から明治初期に13代藩主斉泰によって作られたといわれ「尾山神社神苑」の池の右端の奥の方に明治期に「刎橋」があった。下図には「刎橋」が描かれている。
さらに「玉泉院丸庭園」に江戸時代にあった「紅葉橋」も「刎橋」であったと聞いたことがある。他にもあったと聞いている。
下図は、幕末の加賀藩御用絵師・佐々木泉玄が急流渦巻く渓谷と愛本刎橋を描いたもので、いかに前田家が愛本橋を作ったことに誇りを持っていたかが分かる。