愛本刎橋(1)の続きで、次にこの刎橋の木工技術を駆使した意匠や構造などについて、館内で頂いた「愛本刎橋」の冊子に基づいて説明する。
愛本刎橋の中心・両脇の3列に長い「刎木」という長い柱が組み上げられる。刎木は各列6本が隙間なく積み重ねられて橋の根元から中央に伸びている。刎木の根元はおよそ1/3(約10m)が地中に埋まり重みで固定されている。
この橋の長さは63.5mと長いので、橋の強度を増し橋の横揺れを防ぐために、橋の両側が扇形に広くなっている。
下図は上から見た図と横から見た図
刎木の両端部分は岸壁から橋の中央に伸びるにしたがって水平方向が狭まっている。刎木の幅は吊桁の接合部で描く1/3狭くなって三角の形のなっている。(猿橋は平行である)
これは、愛本刎橋が大規模な構造であっために、風や洪水など水平に作用する力によって橋全体が水平に変形またはねじられることに対する強度を高めるためという。
刎木は6本3列で、一番長いものは45mもあるという。
刎木のうち一番したの「元刎木」は横並びに9列である。この理由は①扇形にするため
②上の方を軽くして構造を安定させるため③貴重な木材を減らして必要十分な構造をとるため
橋の根元の岩盤に立つ大きな柱は「枕梁用柱」で、この柱はおよそ70cm角もある。その上に「枕梁」を横にして、巨大な刎木全体を支えている。
巨大な刎木をどうして作ることができたかは、部材を継ぎ足しながら重ねて長くし、前に張り出していく方法だからできたという。所々に継手や金具で補強し、強度を高めている。
愛本刎橋に刎木は岸壁から20度上に傾斜している。これもなぜ20度であるかは明確ではないが、水平ではひっくり返るし、30度にすると全体的に橋の高さが高くなり、いろいろな条件で建設困難という。
この「ずれ止め」によって1組にに合成された刎木組みができたことから、木橋の限界を超えるような大規模な愛本刎橋の建設ができたと考えらるる。
この横梁のずれ止めの効果の考え方は、戦後の西ドイツで開発された「合成桁理論」そのものであるという。これが350年前の架橋を作ったという事実は驚嘆に値するという。
この橋の建設には難しさがいろいろあった。川べりに急斜面の足場を作ること、巨大な一本の刎木では重すぎて組み立て不能なので、継手を用い集積材だから可能になった。大きな木材を運んだり、揚げたりしなければならないので、現代と変わらないテコを利用した木造のクレーンなどを使った。当時の木造クレーンを復元したもの
当時の手クレーンのイメージ図
下図は天保時代に刎橋をかけ替えた時の樹木の調達のための伐採図であるが、愛本刎橋建設当初は、黒部川扇状地で樹木を賄っていたが、後年は新川郡全域を調達範囲としていることが最近古文書から分かったという。
加賀藩の大工集団(作事所)は、金沢城の建築や瑞龍寺・那谷寺の造営や浅野川・犀川の架橋などを担当し、技能・能力が極めて高かった。そのような集団が愛本刎橋の架け替えの工事に携わった。
下図は、寛政11年の架け替え時の「棟札」を見ると、事務方には「主付作事奉行」と「御徒横目」がいて、愛本橋における命令・伝達は「御用番年寄⇒算用場奉行⇒十村」となっている。
また、材木の運搬や愛本刎橋の工事には近くの農民たちが多く動員されたという。