2023年7月8日土曜日

吉崎御坊跡(1)歴史 西別院

 今回は、「蓮如の里」である「吉崎御坊跡」に行った。小さいころから「東尋坊」に何回か行っているが、その帰りの寄ったことはあるが全く覚えていない。

今回「北陸自動車道」を福井方面に走って「加賀インター」を下りて「国道305号線」を三国方面に走ると、家から約1時間くらいで「吉崎御坊跡」に着いた。門の前には最近オープンした「道の駅 蓮如の里 あわら」があり、ここは非常に混雑していた。













その道の駅の駐車場の裏に現在ある吉崎御坊跡には「念力門」から入った。この門は1591(天正19)年豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので1864(元治元)年「蛤御門の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守ったことから「火消し門」とも呼ばれた名高い門である。1949(昭和24)年に西本願寺より御下附百余名の信徒によって京都から250km、16代の荷車で念仏の掛け声とともに運ばれたという。



















吉崎の歴史は、この地の一人の僧侶が小舟で上がってきたところから始まる。その僧侶は、本願寺の第八世・蓮如で比叡山延暦寺から逃れ、ここに理想郷をつくろうとした。それまで吉崎を領有していたのは門跡寺院・大乗院の隠居だった経覚で、蓮如は経覚と姻戚関係にあった。このことから蓮如は吉崎に来ることができた。
























蓮如は吉崎に来て、先ず坊舎を建て布教に努めた。その人となりと熱意は民衆に受け入れられ、吉崎は瞬く間に一大宗教都市に成長した。本堂、僧堂、庫裏、書院、鐘楼などが立ち並び、周囲には多屋と呼ばれる宿坊が多く立ち並んだ。北陸各地から、蓮如を一目見ようと信仰深い人から物見遊山の人まで、様々な参拝客が訪れたという。


そして参拝客目当てに、商人や職人、水運・陸運に関わる人たちも集まり、吉崎は一つの都市になった。














蓮如が北陸に起こした浄土真宗旋風は、それまでの争いが絶えなかった北陸の村々に連帯意識をもたらした。しかし、そこの充満した民衆のエネルギーは、やがて蓮如の手の届かない方向に向かう。つまり一向一揆の起爆剤となった。一揆を繰り返す門徒たちに、蓮如は何度もいさめようとした。しかし効き目はなく、罪悪感と自らの危険を感じた蓮如は、1475(文明7)年8月に御坊裏手から船でひっそりと吉崎を去った。吉崎に上陸してからわずか4年1か月後である。
蓮如は、吉崎退却後も京都で山科本願寺を建立、さらに石山本願寺(現在の大阪城の地)を創立し、石山本願寺を中心に大阪寺内町ができ、今の大阪地の原形が作られた。
その後、吉崎御坊は1506年(永正3)年に朝倉氏が加賀より越前に侵攻した一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、廃坊となった。


現在は、「念力門」の階段を上りくぐると浄土真宗本願寺(西本願寺)別院の本堂がある。
本堂の建物は1746年に再興された、総欅による殿造である。


















本尊は阿弥陀如来像


















中宗堂の建物で、ここには「オタマヤ」とも呼ばれ、蓮如上人吉崎退去の際、上人ご自身の手で形見として書き残されたと伝えられる「オカタミの御真影」が安置されている。


















蓮如像が安置されている。