小松の近代化の遺構(1)の続きで、尾小屋鉱山は当初経営は苦しかったが、明治20年に良質な鉱脈を見つけると事業は順調に進展した。明治37年には横山事業部を設立し、尾小屋は日本有数の鉱山として栄えた。尾小屋の人口は5000人を数え、小松の市街地と同時期に電気が通じたといわれている。
当初は、鉱石の輸送は人力や馬力で行っていたが、大正期に入ると鉱石・鉱山用資材の輸送用に鉄道を敷く計画がなされた。鉱山長の正田順太郎(徳田秋声の義兄)が起業者となり、尾小屋駅から新小松駅まで16.8kmの路線が、1920(大正9)年に個人名義の正田順太郎鉄道として開通した。1929(昭和4)年に尾小屋鉄道へ譲渡された。
尾小屋駅の様子
尾小屋からは主に精錬後の祖銅が、新小松からは採掘・精錬用の物資や住民の生活物資が運ばれた。すなわち尾小屋鉄道は、鉱石輸送のみならず、沿線住民の足として活躍した。
梯川鉄橋
尾小屋鉱山が不況になり、尾小屋鉄道も経営の混乱もあり、日本興業の系列会社になった。その後、鉱山からの鉱石は、尾小屋駅で尾小屋鉄道の貨車に、新小松からは国鉄の貨車に積み替えられていた。しかしこの鉱石の積み替えは、輸送時の負担になり、鉱石の輸送は、鉱山からか小松駅へと向かうトラックに変わっていった。
昭和32年には、鉱石輸送が廃止になり、尾小屋鉄道は旅客輸送を主体とする鉄道となった。一方、尾小屋鉱山は輸入鉱に押され採算が取れなくなり、昭和37年に精錬所が廃止になり、尾小屋鉄道も沿線の住民が急速に減少し、新小松駅と尾小屋駅以外は無人駅となり、昭和52年に惜しまれながら、ついに廃止となった。
鉄道事業から撤退した尾小屋鉄道は、会社名を小松バスに変更し、バス事業として今でも存続している。
尾小屋鉱山資料館近くには「ポッポ汽車展示館」があり、以前使っていた尾小屋鉄道の電車が展示されていた。