2016年9月10日土曜日

辰巳用水遊歩道(3) 土清水塩硝蔵跡

辰巳用水遊歩道(2)の続きで、「緑化木センター」の駐車場から、ここの下に「湯の谷水門」があるということで見てみたが、草木が生い茂りわずかに見ることができた。この辺りは「大道割」の谷があり、用水のルートも大きく折れ曲がっているところであるが、よく見えない。この先は犀川浄水場から流れてきている。現在、兼六園に流れ込む水は、この浄水場から別のバイパスルートで流していると聞いている。








































この水門を調節する作業のために、通りから下に降りる回り階段が付いていたが、一般の人は降りれなくなっていたので近くで見ることはできなかった。


























今度は、車道を下っていくと梨の直売所があり、早くなる品種の梨がちょうど売っていて、忙しそうだった。この先も品種によって熟する時期が違うのでしばらく直売すると言っていた。




















採れたての新鮮でおいしそうな梨が並べられていたので、手ごろな値段と大きさのものを買おうと思って探しているうちに、目をつけていたものが他の人に買われてしまったのでやめた。




















そこからすぐの所に国史跡の「辰巳用水 附 土清水塩硝蔵跡」(たつみようすい つけたり つっちょうずえんしょうぐらあと)があり、石碑が建っていた。


























土清水塩硝蔵跡は、江戸時代に加賀藩が設立した黒色火薬施設である。黒色火薬は塩硝(硝酸カリウム)・木炭・硫黄からなる火薬の一種で、藩政期には主に火縄銃や大砲などの銃器の火薬として使用された。
藩政期初期の加賀藩では、黒色火薬は金沢城内の施設で製造されていたが、火災によりたびたび爆発したため、1651(慶安4)年に小立野の波着寺付近に新たに設置したが、これも焼失したため、1657(万治元)年に涌波村領内に施設を新築し、以後、加賀藩の黒色火薬はここで製造されたという。




















幕末には全国各地の動乱により急増した洋式火薬の需要に対応するため、1864(万治元)年より施設を増築し、1868(慶応4)年に竣工したという。この時の敷地面積は約11万m²であった。その後、1870(明治3)年に操業は停止されたという。
現在見えるのは塩硝蔵の約半分であるという。




















黒色火薬は原材料である塩硝(硝石)、硫黄、木炭を調合してつくられていた。このうち塩硝は越中五箇山で生産され、硫黄は立山地獄谷で採取し、滑川で精製された後、土清水塩硝蔵まで運ばれた。木炭は施設内の「木灰所」で生産されていた。
藩政期には火薬用の塩硝が日本の各地で生産されていたが、特に五箇山の煙硝は「培養法」と呼ばれる方法で、多収で高品質であった。
土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品の貯蔵と搬出まで行う大規模施設であったという。
下図は土清水塩硝蔵跡の建物配置図で、図内の「搗蔵」では辰巳用水の水を動力として水車を回し、原材料を粉末加工していた施設であり、「縮具所」では調合した原材料を練り延ばしていた施設である。




















帰りに「崎浦公民館」に寄ったが、ここに当時使用されていた「塩硝箱」や関連古文書が展示されていた。