2014年10月21日火曜日

木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり(2)

木曽義仲と倶利伽羅合戦の地めぐり(1)の続きで、「道の駅メルヘンおやべ」を出て、次に急な階段を上って「倶利伽羅不動寺」へ行った。




















ここの本堂には弘法大師が奉安したという倶利伽羅不動尊が祀られており、日々護摩法が修法される境内の中心である。何度かの災厄により明治以降は本堂と呼べるものはなかったが、昭和25年以降に金沢の天神橋の袂にある了願寺より忠魂祀堂を運んできて建立されたという。この了願寺には、琵琶を持った像があることを卯辰山に上る時に何度も見たことがあり気になっていた所である。




















施無畏堂(せむいどう)はさまざまな苦難や災害にみまわれる人たちの迷いや不安を取り除き、安心を与えてくれる仏様のお知恵を授かるお堂だそうです。
この堂の入口にある二本の錫杖は、これを持ち上げ「南無大日大聖不動明王」を唱えながら三度振り下ろすと、人々のこれから進む前途の苦厄を払い除け身体を守るという。





















高さ8mの朱塗りの五重の塔があったが、中央に金剛界大日如来をお祀りし、塔の中には信徒各位の写経が納められている。



























五重塔の先からは、砺波平野が一望できた。天気が良いと立山連峰も見えるという。




















この辺りは倶利伽羅古戦場として有名であるが、これは1183(寿永2)年に木曽義仲軍が平惟盛りを破った戦いをいう。
木曽義仲は京都を目指して北陸路を進軍し、十万の兵を率いる平惟盛と加賀・越中の国境の倶利伽羅山で対戦した。埴生護国八幡宮で戦勝祈願し、夜半に四万の兵をもって一斉に攻撃を開始した。


























この時、義仲軍が法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、、奇声をあげ、四、五百頭の牛の角に松明をつけて暴走させる火牛攻めを行い、寝ていた平氏軍は大混乱し、折り重なるように谷底に落ちたという。これが「源平盛衰記」に載っているという面白い話である。




















続いて、津幡町にある「倶利伽羅神社」にいった。





















ここの宮司さんの家にある池田九華作の「源平倶利伽羅合戦図屏風」を見せてもらった。




















埴生護国八幡宮で戦勝祈願した義仲が平家軍の様子を聞いているところ。





















「火牛の計」で平家軍が谷底に落ちていくのが描かれている。




















この絵の中に、女武者の「巴御前」が描かれていた。鎧冑を身に着けて勇敢に戦っているが、冑を脱ぐと長い黒髪をなびかせた大変な美人であったという。
そういえば「木曽義仲と巴御前」の大河ドラマ誘致の話はどうなったのであろうか?大河ドラマになれば、津幡町も小矢部市も活気付くでしょうね。




















今回のバス旅行で「木曽義仲と倶利伽羅合戦」について、いつもながら面白い話をしてくれる東四柳先生のおかげで、いろいろ知ることができ大変よかったと思う。
機会があったらまた、こういうイベントに参加したい。

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