2023年10月20日金曜日

深田久弥の文化館

 小松天満宮(2)の続きで、加賀市大聖寺番場町にある「深田久弥の文化館」に行った。

深田久弥と言えば「百名山」であまりにも有名になっている。山の愛好家では百名山・二百名山などを目標にして山を登っている人も多くいる。



















この山の文化館の建物は、明治43年に建てられた絹織物工場「山長」の事務所・石蔵・門を改修したもので、平成14年に国の登録有形文化財になった。
事務所は木造2階建てで、外壁をイギリス下見板張りとした洋風建築となっている。
建物の前には樹齢650年というイチョウの巨木が立っている。














中に入ると深田久弥の略歴が貼られていた。



















深田久弥は、大聖寺中町で代々文房具屋を扱い、印刷業を行っていた深田弥一の長男として1903(明治36)年に生まれた。5歳で百人一首を全部覚えたそうで、1916(大正5)年に旧制の福井中学に入学した。この頃から加賀市内や福井県内の山に登り山の魅力にひかれていったという。



















1926(大正15)年に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、友人らとともに「新思潮」を刊行して、作家としての道を歩き始めた。その後も素朴で抒情的な作品で次々に発表し、山岳に関する本も描いており、「呼ぶ冬山」などを執筆していた。


















昭和39年に発表した「日本百名山」は、登山家愛好家だけでなく、多くに人に愛読され、日本の山々の美しさを人々に再認識させる大きなきっかけになったという。
廊下には「日本百名山」の写真がずらりと展示されていた。


















深田久弥が選んだ「日本百名山」の地図が貼られていたが、久弥の百名山の選定基準として「品格、歴史、個性」を兼ね備え、原則1500m以上の山でかなり東日本に偏ったという。


















写真の下の棚には深田久弥が愛用していた「登山靴」であろうか?


















日本のみならずヒマラヤに戦前から思いを寄せていて、昭和27年にヒマラヤ研究を本格的にやり、諏訪多栄蔵の援助も受け「岳人」には「机上とヒマラヤ」を連載した。
下図は「エベレスト付近」の地図






































深田久弥は執筆の資料として膨大な内外の文献を所有していて、夫人の裁量で自宅の庭に作ったのが本小屋兼書斎が「房山山九」である。ここに置かれていた文献は当時日本一のものがあったという。
























いろいろなイベントも開かれる18畳の広い展示場からは庭園を眺めることができる。


















庭園を眺めながら、くつろぎ、談笑できる和室と茶房などが備えられている。


















二つの句碑が並べられていた。
「雪嶺に向ひて町を行きつくす 九山(きゅうさん)」
九山は、高浜虚子の門下生であった深田久弥の俳号である。句は、純白の白山に魅せられて歩いていたら、いつの間にか大聖寺の町はずれに来たというもの。
「白山を吊り上ぐるかや寒の月 宏」宏は、深田久弥山の文化館の館長高田宏さんで、句は、透き通るように晴れ渡った冬の夜、月光が白山を銀白に照らし、ぐいぐいと上がっていく月がまるで白山を釣り上げているように見えたというもの。