2018年10月3日水曜日

明治維新と石川県誕生150年(2)西南戦争

明治維新と石川県誕生150年(1)の続きで、「西南戦争」と石川県士族について紹介する。



















明治政府は、1873(明治6)年に韓国との外交問題「征韓論」をめぐって対立が起こり、論争に敗れた西郷隆盛や江藤新平らが政権から去って下野することになった。



















 1874(明治2)年、政変に敗れて下野した江藤新平は、郷里佐賀で前秋田県令島義武らとともに蜂起したが、大久保利通を中心とする政府軍の迅速な攻撃に屈した。その後も政府の開命政策に反対した宮崎車の介らの「秋月の乱」、前参議前原一誠ら長州士族らの反乱である「萩の乱」などが頻発した。
























ところで、石川県内では明治4年の廃藩置県によって薩摩士族の「内田政風」が金沢県の初代長官(大参事)が任じられた。これは旧加賀藩士族が薩摩勢力に結びつこうとして運動した結果とも言われている。陸義猶(くがよしなお)や長谷川凖也、杉村寛正らが薩摩藩と連携して「国家の大略」に当たろうと考えたようである。これらの人は西郷派と呼応して政局への参加、従軍への望みを抱いていたという
























一方、西郷をか担いだ鹿児島の不平士族は「私学学校」を設立し、政府に反乱を起こした。これが、これが士族反乱の最大規模の戦争の「西南戦争」で日本史上最後の内戦となった。西郷軍の決起の知らせを聞いた政府は有栖川熾仁親王を征討総督に任命し、全国の鎮台(のちの師団)兵に出征を命じた。石川県では、金沢の第七聯隊も参加し、明治10年2月に金沢を出発したのを皮切りに順次九州の戦線に投入され、その数は2000人にも達したという。3月に征討軍に編入され、博多に上陸し、直ちに西郷軍と戦闘を交えている。その後第七聯隊は各地に転戦し、4月21日熊本城に到着したのちに、鹿児島まで進撃した。



















薩摩軍と官軍との戦いは熾烈を極めたが、圧倒的な軍政を誇る官軍の前に、西郷軍は9月24日に退却した鹿児島の城山で敗れ去った。その際に敵の銃弾は西郷隆盛の股部と腹部を貫き、もはや最後と考えた西郷は側近の 介錯により自害したという。
この西郷の首を見つけたのは、加賀藩の足軽でその後第七聯隊の千田登文中尉が率いた一兵卒であったと伝えられる。溝の中に手拭いで包まれていた塊を発見し、調べたところ西郷の首であることが分かり、官軍参事の山県有朋に届けたと、後に見つかった千田登文の履歴書の記載されていたという。
下の写真は戦没者が眠る南州墓地と桜島



















この西南戦争は、士族と新しく徴兵制の導入によってできた本格的な内戦であり、この戦いで政府軍が勝利したことによって「武職」の特権を誇示したいという士族が「国民皆兵」の新生徴兵軍に敗れたことになる。

鹿児島での戦いは政府軍の勝利に終わり、第七聯隊は10月下旬に金沢に帰還した。西南戦争で戦死した石川県人は出兵した兵士のうちの2割に当たる約400人であった。これらの戦没者を慰霊するために、尾山神社の境内に「尽忠碑」が建立された。生還した兵士らが中心となって建立し、旧藩前田斉泰は、自らの碑文を撰するとともに、建立の一部として250円寄付した。現在は、兼六園内の日本武尊の銅像の横に移されている。またこの碑の裏には戦没者の名前が刻まれている。



















兼六園の千歳台に、古代神話の英雄日本武尊の像が広場を見渡すようにそびえている。江戸時代の大名庭園には、ちょっと異様な光景に映る。この銅像は、靖国神社の大村益次郎に先立つ、日本最初の屋外銅像で、西南戦争の戦没者慰霊碑として建立されたものである。























この像の築造にあたっては、天皇をはじめ旧藩前田斉泰、さらに東西の本願寺からも多額に寄付を寄せられている。明治13年10月26日~31日にかけて浄土真宗ら各派の僧侶や神職が来会して霊を弔い、盛大な完成供養が6日間続けられたという。銅像の左右にあるアカマツは東西の本願寺から寄進されたもので、御花松(手向松)と呼ばれている。