2016年2月8日月曜日

津田玄蕃邸 金沢城復元画展

雪景色の兼六園を見た後、兼六園の「金城麗澤」の向かいにある「金沢城・兼六園管理事務所」の方に行った。、この建物は旧加賀藩重臣の「津田玄蕃邸」の遺構である。この邸宅は、宝暦の大火(1759年)後の建物で、築240年以上経っている。建物の内部は変遷により変わっているが、唐破風の大きな屋根、玄関、式台は当時のままという。この建物は、もと大手町にあり、1870(明治3)年から藩立の「医学館」として使われていた。医学館廃止後も病院として使われていたが、1923(大正12)年に金沢市立図書館の建設敷地となっため、現在地に移されたという。




















津田家は、加賀八家とともに1万石以上の重臣12家のひとつで、これらで加賀藩政を主導したという。




















玄関上部の梁の上に龍が細かく彫られていた。




















入母屋造りの屋根は当時の面影を残す。私の子供の頃、ここの窓から武道の寒稽古(?)の様子を見たことを記憶している。




















玄関の前には、「辰巳用水」に使われた石棺や割と新しそうないくつかの小さな灯篭が置かれていた。




















また、ここの庭には兼六園の名木などが枯れた時に備えて、若木が育てられている。「兼六園菊桜」の2代目が去年枯れて朽ちてしまったので、今年の春に3代目が現在の場所に植え替えられる予定だ。




















続いて、レンガ造りの建物の「歴史博物館」に行った。




















ここでは、今日(1月26日)のニュースで知ったが、「復元画でよみがえる金沢城」展を見に行った。これは、金沢美術工芸大学の非常勤講師である「末松 智」先生が描いたものである。


























「末松 智」先生は、ウィーンに13年間滞在し、美術と工芸を修得し、帰国後その経験を生かして、金沢城の復元画に17年間取り込んでいるという。残念ながら、その絵についてはカメラ禁止だった。




















昔の絵図や写真を参考にして描いたという二の丸菱櫓、二の丸式台(正面玄関)、二の丸表舞台、東の丸辰巳櫓そして今度再現が計画されている鼠多門(玉泉院様丸御門)などの絵が展示されていた。二の丸菱櫓や五十間長屋の絵は、現在ある建物が復元される前に描かれたものだという。二の丸表舞台は、現在中村神社にある能舞台を参考にして描いたという。(中村神社にあるものは、二の丸の中にもう一つ能舞台があったがそちらのほうだといわれている)。また、二の丸唐門は現在尾山神社の裏にある「東神門」を参考にしたという。




















今度の金沢城公園の復元計画は、玉泉院丸庭園と尾山神社を結ぶ「鼠多門」と「鼠多門橋」であるが、発掘調査でかなりのことが判明され、再現に向けて弾みがつくという。しかし、以前の橋の高さでは、現在の道路上を走っている車が通れないというが、どんなものができるのだろうか?
下図の絵は、今回の金沢城復元画展の案内はがきに載っていたものである。





















2 件のコメント:

  1. 江戸時代の重臣の家は、立派だったんですね。相当な財力があったのでしょう。
    津田家の子孫は、現在いらっしゃるのでしょうか?

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  2. 一万石といえば、昔は一人一石の米を消費するといわれていましたから、一万人の家来を食べさせる能力があったということになりますが、実際には米だけでなく、経済上いろいろなものを必要としましたから、この半分ぐらいではないかということです。米の価格はそのときに応じて変動していたから一概には言えませんが、、ある説によると、今の金に換算すると年収数億円ぐらいではないかということです。
    津田家の子孫ですが、明治になって斯波氏に改姓し、戊辰戦争の功績で、「男爵」を叙され華族となったということです。その後は、どうされているのか、すみませんが分かりません。

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