2015年11月2日月曜日

東外惣構堀(1) 山崎山 八坂 松山寺

以前に西外惣構堀、東西内惣構堀を巡ったので、今回は残りの東外惣構堀を歩いた。




















東外惣構堀は兼六園の山崎山の裏が源である。ここには現在,堀のところが池がなっており、後が土居を利用した山崎山となっている。兼六園には多くの人が来るがこの裏まで来る人はほとんどいない。池の後ろの大きな木々は鬱蒼と茂っていて、あまり手入れがなされていないようである。




















このすぐ近くに「氷室跡」の立て看板があったので、いつのころまでかは氷室があったらしく、藩政期には夏になるとこの氷室の雪を江戸の将軍家まで献上していたという言い伝えがあるが?




















「兼六坂」の一番上の場所に「兼見御亭」という大きな店があるが、ここは兼六園に近い場所でありながら大型バスが何台も止められ、多くの観光客を呼び寄せることができるので、多くの団体客が利用している所だ。東京から来た団体に誘われて随分前に入ったことがあるだけであまり覚えていない。10数年前に長野県のある民宿に泊まったときに「金沢から来た」と言ったら、そこのご主人が「兼見御亭」で食事をしたことを言っていた。面白い名前なので記憶に残るのだろう。




















この隣に急な坂があり、「八坂」の標柱があった。昔、付近にきこりが通う八つの坂があったからこの名前が付いたという。後に一筋が残り「宝憧寺坂」とも呼ばれた。


























この八坂は、小立野台地と浅野川平地をつなぐ坂の中で一番急坂であり、長さが127m、高低差24m、傾斜度13度で、手すりが付いた石段が付いていた。ここを車で上がり下がりするには、相当注意しながら運転しなければならないだろう。
藩政期には、滝のようにすごい勢いで水が流れ大きな音がしていて、卯辰山からも絶景として見れたという。




















八坂を下りたところの右手に「松山寺」があるが、ここは、加賀八家の横山家の菩提寺である。2代長知(ながちか)によって1599(慶長4)年に創建された。前田家が徳川家康から「謀反の疑いあり」と嫌疑をかけられ加賀征伐を企てた時に、長知が江戸城に出向き弁明し和解にこぎつけたことでで有名である。




















参道の入り口に「延命地蔵尊」があったが、八坂が整備された昭和55年に新しく建てられた。由来は不明だが、昭和初期には松山寺境内で地蔵祭りが営まれていたという。




















昭和56年に市指定保存樹となった高さ25mのモミの木が参道の両脇にそびえている。


























本堂は宝暦の大火で消失したが、1788(天明8)年に再建されたというから石川門と同じ年に建てられたということだ。入口は唐破風の屋根で、再建の際に臨済宗本堂の古材を買い取り、曹洞宗の形式に作り変えたという。屋根の天辺には横山家の家紋の卍の印が付いた金属が貼られていた。
ここの寺には、いろいろお宝がありそうだから、後日、入って見せてもらいたいと思う。




















山門は切妻作り、桟瓦葺きの一間一戸の薬医門であるという。棟門には「文政5(1822)年再建惣門」とあり、建立年代が分かる貴重な門の遺構で、加賀八家横山家の菩提寺にふさわしい門である。ここの横にある「医療センター」の下のお寺「鶴林寺」、「雲竜寺」、「安楽寺」と「永福寺」を含めて「八坂五山」と呼ばれている。