2012年6月25日月曜日

長町界隈


北国新聞社で、あるセミナーを聞いた後で長町界隈を歩いた。




(1)旧加賀藩士高田家跡





















高田家は加賀藩士の平士という身分であった。
平士とは、人持組頭(加賀八家)、人持組の次に位の高い武士で、藩主のお目通りが許されていた。
高田家は平士では中級の550石であったが、500坪の敷地を持っていた。
江戸時代の武士は、現在と比較にならないほど大きな敷地に住んでいたのかと驚く。






現在は、母屋がなく、長屋門という建物だけが残っていた。
長屋門というのは、門だけでなく、写真のような長屋をつけることを許されていた。
そこには、仲間(ちゅうげん)、小者と呼ばれる武家奉公人が住み込んでいて、門番やお供などの仕事をしていたと言う。
庭も、前にある大野庄用水から引き込んだ水を利用した池や灯篭、松などの木々がきれいに整備されていた。


(2)足軽屋敷


 



足軽は弓や鉄砲の部隊などの仕事をしていた。
身分の低い地位であるが、現在の普通の家の広さを持っていた。


(3)金沢職人大学 長町研修塾




武家屋敷跡を職人大学(本校は大和町の芸術村内にある)のイベントなどがあるときにここを使用することがあると言う。
こういう場所でイベントがあるのも、趣があってよいと思う。


(4)ギャラリー 夢工房




あぶらとり紙、加賀友禅染のハンカチ、風呂敷、その他布製のバック、財布などが陳列されていた。
あぶらとり紙は金箔の製造工程で使用される和紙と同じ材質と製法で作られたもので、顔のあぶらとりなどに使用される。
柿渋を塗った布で作られたバックや財布は、見た目、皮のようであった。
柿渋は自然材料で、また、抗菌作用もあると言う。
使えば使うほど味わいが出てくると言う。最近、若者が一見ハゲハゲのジーパンをはいているが、ちょっとアンティークな感じが出てくると言う。
店の説明して下さった方も。親切に説明してくれてとても感じがよかった。



より大きな地図で 長町武家屋敷跡 を表示

4 件のコメント:

  1. 坂本竜馬のいた土佐藩では、上士と下士という区別があって、下士は大変な差別を受けていたようです。
    加賀藩は、どうだったのでしょうかね。

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    1. 土佐藩は上士と下士は、以前からの因縁があって非常に差別があったと聞いています。加賀藩では、そこまで特に聞いていませんが、身分が違うと多かれ少なかれあったでしょうね。

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    2. 近藤です。新しい投稿お待ちしています。

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    3. 閲覧、ありがとうございます。
      そのうち、菊川方面も散歩するつもりです。
      定期的に見てください。

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