2020年6月14日日曜日

小立野界隈(1)上野八幡神社

今回は、小立野界隈を歩くということで、まず「天徳院」の奥にある「上野八幡神社」へ行った。
この社地は、御塚をいわれ古来より村民の尊崇厚き貴婦人の古墳林の一部であったという。この御塚は約1300坪あり、杉や松の密林で、何人も寄せ付けなかったといわれるている。中央部分には高さ6間、広さ300坪の大きな古墳があり、大古墳を守るようにして小さな古墳が56基あったと伝えられている。明治時代以後に中心部の松の木以外の樹木は伐採され、近年松の木も伐採され地ならしし、金沢大学工学部が建てられたという。



















上野八幡神社は1583(天正11)年頃、前田利家公に内通していた石動山天平寺の僧空山が自家伝来の八幡大神を石動山の麓に祀ったのが始まりとされ、前田利家公金沢城入城後、1593(文禄2)年に金沢山崎郷白山町(現在の福光屋酒造付近)に移転し、1731(享保16)年に現在地に遷座したと伝えられている。




















上野八幡神社の秋祭りには、餅つき踊りが奉納される。収穫の秋に実りの感謝を表すもので、氏子らが踊りながら餅の曲づきをする。餅つき踊りは天正11年に藩祖前田利家が七尾城から金沢城に移られた折に、住人たちが餅をついて献上し、お祝いの意味で曲づきをしたのが始まりだという。その後、音曲を入れておもしろくしたといわれ、これを町内(旧上野町、現在の小立野3丁目)の秘技とし、長男のみに口伝で伝承されている。


また、由来については不明であるが、33年ごとにお神輿が氏子中を練り歩き、その際には餅つきの踊りの他に、獅子舞や太鼓行列も加わって盛大に執り行われる。



















拝殿前の両側に赤戸室の灯篭と狛犬が置かれている。



















屋根が立派な「手水鉢」



















境内には「山さむし心の底や水の月」と刻まれた芭蕉の句碑がある。この句碑は1875(明治8)年に宝憧寺にあったものを移したもので、松尾芭蕉が「奥の細道」で金沢に来た時、宝憧寺に立ち寄り、月光に照らされた医王山を眺めて詠んだのはこの句と言われている。かって宝憧寺は上野八幡神社近くにあり、歴代藩主の吉凶を占うなど隆盛を極めたがを極めたが、明治8年に衰退し百姓町に移った。今はわずかな墓だけを残すのみとなっている。



















ここの境内には大きな杉の木が何本もあり、この辺りだけが森の中にあるようだ。
























神社の前の鳥居の横の目立つところにこの近くの酒屋「福光屋」や「福光松太郎」の名前が刻まれていたが、多大な寄進をしているのだろう。



















「上野八幡神社」の隣の「すみれ児童公園」からは、「旧金沢大学工学部」の跡地に「石川県立図書館」の建物を建てる予定になっているが、現在はその敷地に大きな建設機械が入って造成中である。



















久しぶりに工学部跡に行ったが、昔の面影は全くなかった。ここは1920年に設立された「金沢高等工業専門学校」があり、戦後の1949年に金沢大学工学部となったが、今は「角間」に移っている。