大野界隈(2)の続きで、さらに一本海側の通りは、少し広い道で「旧庄町」の本町通りは大野庄の発祥の地であったことによる。
この通りの脇に「大野町の道路元標」があった。尾張町にある「石川県の道路元標」を起点として、大野町までの距離を測定したときに建てられたものであるから、この通りが当時の主要道路であったことが分かる。
さらに一本海側の通りは、「旧坂本町」の通りで、「日吉神社」はもと「山王大権現」といい、社頭が盛んであったころには近江坂本から来て奉仕した僧侶の宿坊があったからという。
「旧庄町」の角には「消防署 大野町分団」の建物には高い塔があり、階段を上って遠くを見渡す所と上にはスピーカーがあったが、昔は2階に掛かっていた「半鐘」を鳴らして人々に火事を知らせたのだろう。
その向かい側に「直江屋源兵衛」の住居および醤油醸造工場がある。ここは2代直江源兵衛が1825(文政8)年に醤油醸造業を始めたといわれており、4代直江源太郎の代にこの住居が建築されたと伝えられているという。
ここの木造の醤油蔵跡が「醤油などの販売とカフェ」となっている。
ここには、多くの種類の醤油やドレッシングなどが販売されていた。
ここに醤油や「つゆ」や「だし」のラベルが展示されていたが、そのラベルの多くに「直源」のマークが入っていた。また、黒板に小豆島、龍野、銚子、野田と大野が描かれていて日本の「五大醤油産地」であることを知った。大野醤油はその中でも甘口の醤油だという。
また、明治初期の「直江家」の住居の中の部屋を見ることができた。チャノマには囲炉裏の中に鉄瓶と「橋本家」で見たものと同じ蓋のついた金属のボックスがあった。その上に自在鉤がぶら下がっており、天井は梁が太く非常に高く、明り取りの窓があった。チャノマの上り口は年代を感ずる板が敷いてあった。また、壁には「直江源太郎」書の「醤油醸造」の額が掛かっていた。
トオリニワを通してチャノマの反対側には蔵の扉があり、重厚な漆喰塗りに鉄板で補強された扉の中に格子戸があった。
玄関には大戸があり「直江醤油株式会社」の看板が掲げられていた。