2018年12月14日金曜日

大野界隈(4)大野町屋

大野界隈(3)の続きで、その後大野川方向に歩くと、大野の町屋が多くみられる。「山守家」は二階が低く「低町屋」で、二階は袖うだつが両側にあり古格子の上下に長押、腕木がある。一階は二段構えの出格子で、細格子と荒格子がある。庇の下にサガリがあり、出入り口は繰り上がっていて、今はガラス戸だが、以前は大戸とくぐり戸があったと思われる。



















「笹島家」は三段構えの出格子である。



















金沢の中の寿司屋としても有名な「宝生寿司」の建物も典型的な大野の町屋づくりで、壁は洒落た「紅殻色」に塗ってあり、高級感を持たせている。一度はここでお寿司を食べたいものである。



















「山守家」の向かいには、浄土真宗大谷派のお寺「名聲寺」がある。ここは、もと金沢鍛冶町にあったが、明治43年に今のところに転じた。大乗寺の塔頭で徹通が開山したもので、後年大野に再興して尼寺としたという。



















このお寺の本堂側面の屋根下は、この大野の北前船の船主の屋敷や醤油蔵と同じように押縁下見板になっていて、大野の町らしいお寺である。



















その隣にある「大野こまちなみ公園」の中のトイレの建物もここの街並みにふさわしい木造で、上の時計台は洒落たデザインのトイレだった。



















ここの公園に北前船で活躍した「丸谷伝兵衛」の旧居跡の石碑があった。



















その横に、大野の北前船で活躍した「丸屋伝衛門」について説明書きがあった。藩政期の寛政~文政(1789~1829)のころに盛業を極めた「丸屋伝衛門」は、大野港を拠点として北は北海道、東北から、西は下関を経由して大阪へ、東は江戸へと航路を広げて、大いなる富と豊かな文化を大野にもたらした。丸屋のほかに川端屋、浅黄屋など大野を代表する船主達の名は、今も日吉神社の御神灯や鳥居に見ることができるという。



















大野川沿いにある角の家「喜楽屋」も三段に分かれた屋根で、庭もきれいに手入れされていて洒落た町家である。ここは現在は使われていないように見えたが、誰か住まわれているのか気になった。



















ここの「喜楽屋」が保管している「蓮湖真景の図」は、幕末の絵師佐々木泉景作で幕末の大野の街並みが描かれているが、この頃すでに多くの家が並んでいたようだ。



















大野川にかかる「みなと橋」は、金沢港工事用の連絡橋だった。金沢港建設により、大野川は昔私が子供のころに見た様子とすっかり変わってしまった。この橋から眺める山並みは、手前の金沢市の低丘陵だけでなく奥の高い山もくっきり見える。先日の新聞に内灘からくっきり見える「立山連峰」の雪山の写真が掲載されていた。

































この橋から海側を見ると「大野灯台」が見える。白色、四角形でたかさが26.4mという。1878(明治11)年に大野町の浅勘七が私財を投じて新川の河口左岸に灯竿を建てたのは始まりで、その後1897(明治30)年に、下金石日和山灯竿が点灯されたという。現在の灯台は昭和28年に設立されたもので、日本の灯台50選にも選ばれているという。大野こまちなみフェスタなどで特別公開されるという。