2013年12月27日金曜日

兼六園 蓮池庭(1)

広阪から真弓坂を上がると、すぐ左手に池があるが、この辺が蓮池庭である。




















このあたりは藩政期以前から蓮(はす)が池や沼一面に生育していたので蓮池と呼ばれていた。その後、蓮池庭は5代藩主前田綱紀によって手を加えて庭が造られたもので、兼六園の中でも最も古く作庭されたところである。
ここは私が兼六園の中でも最も好きな場所で、いつ来てもすばらしい庭だと思う。兼六園の六勝のうちの幽邃(ゆうすい)、蒼古(そうこ)の趣があるところである。




















ここの池を瓢池(ひさごいけ)と呼ぶが、池の中ほどがくびれていて瓢箪(ひょうたん)のかたちをしているからこの名が付いたという。




















ここに茶亭夕顔亭があるが、1774(安永3)年に11代藩主「はるなが」によって建てられたもので、現存する茶亭で藩政期唯一の建物であるという。茶室内の壁には夕顔の透かし彫りがあるのでその名が付いたというが、柵がしてあり中に入れなかったので見ることができなかった。
茶室は通常外が見えなく閉ざされた空間であることが多いが、ここは滝や池庭を眺め、滝の音を聞いて茶を楽しむ趣向のなっているということである。そのたたずまいは侘びた茅葺の草庵の趣がある。




















夕顔亭の周辺は露地となっていて、そこに藩政期の金工で有名な後藤程乗(ていじょう)が彫ったという「伯芽断琴」(はくがだんきん)という円柱形の手水鉢がある。
自らの琴の音を最も理解した友人の死を嘆き、一生琴を奏でないことを誓った名手伯芽の姿が浮き彫りにされているという。




















また露地の通路の近くに竹根石の手水鉢が据えられていた。この石は竹の根の化石とか竹の形をした石だとかいわれてきたが、実際は太古のヤシ類の化石で学術上貴重な資料となっているという。




















翠滝(みどりたき)が瓢池の対岸にあるが、この自然を生かした滝は観るだけでなく音を聞いて楽しむことが工夫されているという。滝つぼはなく一度落下した水は石に当たって広がり、霞が池から流れ出て瓢池に落ちる大滝で1774(安永3)年に夕顔亭とともに完成した。




















夕顔亭前から眺める翠滝は兼六園の中でも最も景観の優れている場所のひとつである。


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2013年12月22日日曜日

辻家庭園

今回は市民講座の「金沢学」で寺町1丁目にある「辻家庭園」に行った。「金沢学」は毎月1回北国新聞社の大ホールなどで、今年は「ふるさとの偉人」についてのテーマで講座があり、毎回参加している。特に今回は新しくリフォームされた「辻家庭園」が見れるということでわくわくしながら参加した。
まず隣にある金茶寮の大広間で辻家の主人から「辻家庭園」についての説明を受けた。この人は私の友人とテニス仲間であると聞いていたので親しみを感じた。








































「辻家庭園」は加賀藩家老の一族の横山隆興が別荘兼迎賓館の庭園として明治後期から大正時代の初期に作ったという。当時、横山家は尾小屋鉱山での銅の産出により莫大な財産を残し、「金沢は横山で持つ」と言われたほどだったという.
その後、尾小屋鉱山の経営にゆきづまり、この庭園も売却に出され、残念ながら現在は庭園の中心部しか残っていない。もし当時のまま残っていれば兼六園と並ぶ名所になっていただろうという。ここはその後、小倉家に渡り、戦後辻家が買い取ったという。
この庭園は、建設当時の最先端国である英国の影響を受けたという。庭園を設計したのは、近代日本庭園の傑作と言われる東京の椿山荘や古河庭園を手がけた京都の庭園師の7代目の小川治兵衛であるという話を聞いた。

続いて我々は場所を辻家庭園に移った。




















辻家の母屋には「群青の間」があり、壁がコバルトブルー(群青)に仕上げられていた。今回はじっくり見れなかったのでカメラを撮るのを忘れてしまった。アフガニスタンでしか採れない「ラピラズリ」の粉末を使う絢爛豪華なものだという。もう60年前に塗られたというがまったく色あせていなかった。
ここからは犀川や遠く戸室山や医王山が見える絶好のロケーションだ。天気が悪かったので、今回はできたばかりの結婚式場に通じる渡り通路からガラス越しに庭を見た。
ここの庭は紅葉のころが一番きれいだと言っていた。もう1ヶ月前に来ればよかったのに残念だ。




















ガラス越しに富士山の溶岩を大量に使ったという滝を見ることができた。また、特に溶岩の下は鉄筋コックリート工法で、金沢では最初のものであるという。滝の下方の小川も人工であるが、いかにも自然な流れのように見える。この滝の水源はもと長坂用水からであったが、今は遮断していてポンプで循環しているとのことであった。この辺は木々が生い茂り、とても町の中にいるとは思えなく深山の趣がある。




















今回新しくできた結婚式場の中は見れなかったが、全国的に有名な会社の「ノバレーゼ」というところがやっている。もうすでに2~3ヶ月先まで予約が埋まっているという。金沢に新たな趣向を取り入れた結婚式場にとなるであろう。
辻家庭園は今まで非公開だったが、今後、一般公開されいつでも入れるという。きれいな庭園を眺めながら、抹茶とお菓子を食べられるコーナができ、今後金沢の新しい観光スポットになるであろう。




















続いて金茶寮の大広間に戻り、横山家の一族である石川郷土史学会幹事の横山方子(まさこ)さんから加賀八家のひとつである横山家の系図についての説明を受けた。




















横山家の2代長知(ながちか)は前田利家が亡くなってから、利長が徳川家康より謀反の疑いを受けた際に家康の下に行き疑惑を晴らし加賀藩を救ったことや、3代康玄(やすはる)は利常が幕府から謀反の嫌疑を受けた時に弁明に赴き、危機を逃れたことを聞いた。
明治になって、横山隆興が甥の13代隆平とともに尾小屋鉱山を拓いた。隆興はもと備中町(横山家の家中町)に住んでいたが、高岡町に移ったことや大手町に横山鉱山部があったことなどを聞いた。鉱山部の建物は昔の金沢の写真集で見たことがあるが非常に立派なものだった。

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2013年12月17日火曜日

寺町通り右側界隈

前回に続いて寺町大通りの向かい側を 野田方面から広小路方面に歩いた。
まず「妙法寺」があるが、ここの開基の円智院妙浄法尼は前田利家の弟の佐脇良之の息女で、生母はあの秀吉の愛妾淀君の乳母であるという。良之が亡くなった後、利家とまつに養女として育てられた後、まつの縁戚の篠原一孝の室となった。
ここに円智院の肖像画や利家から拝領した七条架裟や鬼子母神木像がある。




















次に「立像寺」に入った。ここは2代藩主の前田利長の移動とともに何度か場所を移動していて、利長が金沢城主になってから金沢に建てられた。




















境内の右手には江戸時代に活躍した能登出身の6代横綱だった阿武松緑之助の立派な墓があった。




















この墓の横には元禄年間に建てたという古めかしいが立派な二階建ての鐘楼があった。




















高山右近の「キリシタン灯篭」があると聞いていたので、裏の墓地を歩いたが見つからなかった。やはり知っている人と歩かないとなかなか見つからない。寺内には保育園が併設されていて子供たちのにぎやかな声が聞こえた。

その隣には、以前は寺院であったと思われるが、現在は「金沢鐘声園」となっている。中には雪吊がしてある木など手入れの行き届いたきれいな庭があった。寺町のお寺巡りの際の休憩スポットに利用されている。








































ここは「重要伝統的建造物群保存地区」であるから、荒れ放題では困るので金沢市が買い取って手入れしているのであろう。

寺町五丁目の交差点の角には「大円寺」がある。ここは寛永年間に大阪夏陣で戦死した父の供養で建立されたという。3代心岩作の「人骨地蔵尊」は誰にも拝まれない人骨を哀れみ、顔、体や手足に人の骨を砕いて塗りこめたという高さ4mの地蔵尊があるということで見たいと思ったが、玄関にカギがかかっていて人が誰もいなく、残念ながら中に入れなかった。ここはやはり予約をしたほうがよさそうである。








































次に通りを渡って「伏見寺」に行った。




















ここは金沢の地名発祥にまつわる芋堀藤五郎ゆかりの寺で境内の左側に岩山を模したような藤五郎の墓があった。




















お寺の戸が少し隙間が開いていたので覗くとスッーと戸が開き、中から住職が現れて「どうぞお入りください」と言われたので、中に入り拝観料を払い説明を受けた。




















ここにある本尊の阿弥陀如来像は平安時代の金銅仏の力作であり、国の重要文化財である。寺内はカメラ禁止と言われたので残念ながら紹介できない。その他護摩堂にある木彫りの不動明王坐像も西暦800年代の作というから古い。ここにも多くのお宝があった。

寺町寺院群は北陸新幹線開業に向けて観光客を呼び込もうと活性化策を検討していこうという取り組みが広がっているようである。金沢でも一番多い約70の寺があり、京都や奈良の寺巡りのように多くの人を呼び込む力を持っている。ぜひ活性化を成功させてもらいたいものである。

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2013年12月11日水曜日

寺町通り左側界隈(2)

前回の続きで、「長久寺」の先に「妙福寺」という寺がある。ここは加賀の国へ孟宗竹導入の祖である「岡本右太夫ゆかりの寺」という碑が寺の前にあった。江戸時代に江戸から孟宗竹を持ち帰り植えたことが石川県のタケノコ生産の始まりという。




















今では、タケノコが加賀野菜15品目のひとつになっていて、金沢の額、富樫、内川や金城地区(泉野、十一屋)などで多く収穫されている。私の好物のひとつであるが、4月中旬から5月上旬のころにはよくJAに行って「朝とれ」のタケノコを買ってきて、昆布と一緒に煮て食べるのが好きだ。

次に野田方面に向かって少し歩くと、「がけ野神社」があるが、ここはがけ野伊右衛門が石川郡富樫村泉野の新村領地を開墾した際に土の中から出てきたものを祭神天照皇大神としたものである。




















本殿裏のけやきの木に無数のわら人形が五寸釘で打ち込まれたので、参拝者のひとりが天狗の面を木の幹と枝に掛け悪魔祓いをした。現在もそのけやきの木の一本が残っているという。




















その隣に「桂岩寺」というお寺がある。境内の右側に「五百羅漢安置」と記した碑があったので、それを見ていると住職が出てきて「それは無縁墓である。寺の中にお入りください」と言われ、寺とは思われない建物の寺の中に入ったら本殿の二階にそれはすごい五百以上の羅漢が並んでいた。




























































これはお釈迦様の弟子たちを像としたもので、一つひとつの像の動作や表情が違っていて非常に見ごたえがあった。像には尊者と施主の名前がかけられていた。
昭和37年の大火で五百羅漢などが焼失したが、これを25年かかって復活完成したという。





















正面に安置されているご本尊は華厳の釈迦で、頭には王冠をかぶっておられる。




















ここの寺は曹洞宗であるが、わたしの家が檀家となっている寺も曹洞宗で、その寺の話をすると内の住職さんとは非常に親しいと言うことが分かり、いろいろと話が弾んだ。今回はやっとお寺の人と話をすることができ楽しかった。


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2013年12月6日金曜日

寺町通り左側界隈(1)

前回の続きで、寺町通りを野田方面に向かって左側を歩いた。少し歩くと、金沢の高級料亭の中でもひときわ高く、歴史もある「つば甚」がある。以前、私が舟木伝内の復刻料理の食事のイベントに参加したのをこのブログで紹介した所である。
ここは、前田利家が尾張にいた頃から、代々お抱えの鍔師であった。後に、友人、知人をもてなす料理が評判となり、藩主や重臣が訪れたという。
明治以降も伊藤博文など文人墨客が多く来ており、戦後まもない首相の吉田茂の長男の吉田一郎がここに長く滞在し、「金沢」という作品で金沢の料理を紹介している。大小いくつかの部屋は、それぞれ有名人が使用したものでどれもすばらしい部屋であるという。




















その隣には「寺町5丁目緑地」の小さな公園がある。




















ここの入口に中原中也が書いた「金沢の思い出」の作品の一部が記されていた。詩人の中原中也は、軍医であった父の転属に伴って、幼年時代に金沢に過ごしており、この辺に住んでいたという。




















その隣には、「三光さん」で有名な「諏訪神社」がある。毎年旧暦の7月26日に月の出の時刻に併せて「月待ち」の行事がある。卯辰山の稜線から月光が三つに分かれて昇りはじめ、それが合体して見えるので「三光さん」と呼ばれているという。
三代利常の時に、鷹狩りの祈祷のため信州諏訪明神を勧請、合祀したという。








































その先を歩くと、「妙典寺」がある。この寺にある釜師宮崎彦九郎義一の「鋳造三具足」は金沢市の指定文化財である。




















桜橋に降りる道を越えると「高岸寺」がある。ここは、もとは前田利家の正室まつの実家の高畠家の菩提寺で高畠石見守の奥方は利家の妹の「津世」である。また、九谷焼絵付けの祖である後藤才次郎の墓がある。




















その隣には「長久寺」がある。ここには樹齢400年近くになるギンモクセイが2本寺の前にドーンとあった。その横には芭蕉の句碑「秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子(うりなすび)」があった。




























































また寺の前方には、樹高18m、枝幅15mのケヤキの木がある。ケヤキは社寺建築によく利用されている木である。




















この付近は寺町寺院群で寺がたくさん並んでいるが、平日の午後なのでどの寺も境内には誰もいなく、いろいろ聞きたいこともあったができなかった。

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2013年12月1日日曜日

瓶割坂、成学寺、妙慶寺

犀川大橋から広小路方面に上がる坂を瓶割坂(かめわりざか)と呼んでいる。
名前の由来は源義経の一行が北陸を通って奥州に向かった際に、この坂にさしかかった時に義経の妻が産気づき、あわてて衣類を瓶から取り出そうとして瓶を割ってしまったということから付いたというから面白い。




















この坂の途中に「津田水引店」がある。ここの水引は、以前はその平面的な結びと折型を初めて立体的な亀や鶴などの細工にして豪華に飾ったのが創始者の津田左右吉で、その後2代目の津田うめの代に「加賀水引」として全国的に高い評価を受けたという。この店では今でもこれをベースとして結納品や祝儀袋を一つひとつ手作りで作っている。




















次に寺町通りの一本目を左に曲がると「成学寺」(じょうがくじ)がある。




















ここの境内には俳人の堀麦水が建立した「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」の芭蕉の句が刻まれた「芭蕉墳」がある。堀麦水は蕉風復興運動の中心的存在で、全国行脚もした。




















願念寺にある「一笑塚」は知っていたが、ここにもあった。




















その隣にある「妙慶寺」は利家の家臣の松平康定が佐々成政との交戦で戦勝した時の本陣で、後に金沢に移った。




















ここには、あの有名な禁門の変で14代の前田よしやすの行動の責任をとって、琵琶湖畔の海津で自刃した松平大弐(だいぎ)の墓がある。境内の横には、その大弐についての石碑があった。何が書いてあるのかわからなかったが、明治時代に活躍した16代当主の前田利為や尾小屋鉱山を興した横山隆興などの名前が読めとれた。




















また、寺の中にはとんびに化けた天狗が、命の恩人である5代目和尚のために書いたといわれる「火除けの額」がある。




















成学寺の向かいの角には八坂神社(祇園社)があるが、ここの鳥居は赤戸室でできているという珍しいもので、こじんまりとした神社である。






















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