2021年10月31日日曜日

珠洲国際芸術祭(3)聖域の岬 禄剛埼灯台

 珠洲国際芸術祭(2)蛸島駅 珠洲焼の続きで、その後も海沿いの道路に沿って走ると、「聖域の岬」と呼ばれている「珠洲岬」のひとつで荒々しい岩と海の白いしぶきが見られる絶景地域に出る。




















こちらにはこの絶景を目の当りに見える「空中展望台」と「青の洞窟」を見ることができる所がある。料金を見るとかなり高そうだったので入るのをやめた。十数年前にイタリアのカリブ島近くで元祖(?)「青の洞窟」を見たが、今ではライトアップも含めて日本のあちこちでも見ることができるようになった。



















この断崖の下には有名な「ランプの宿」があるが、日本海の海と断崖絶壁の岩に挟まれた所にあり、夜は特にランプをともして幻想的な雰囲気となるところで、温泉とおいしものも食べるのも格別だろう。

































さらに進むと、「道の駅 狼煙」がある。そこから歩いて急階段を15分ほど登ると「禄剛埼灯台」に出る。この灯台は能登半島の再北東端に位置し、1883(明治16)年に初点灯した。今も建設当時の面影を残しながら、禄剛崎沖を航行する道しるべとして重要な役目をしている。



















この灯台は1883(明治16)年に日本に指導に来ていたイギリス人の設計のよって建設されたもので、当時は灯油で発光していたという。昭和15年に電化されその光は海上35kmまで届いていたと案内板に描かれていた。
























丸い石台の上に半球状の銅版にここの位置が記されていた。



















「東京380km」の標識が建っていたが、「ウラジオストック772km」で「札幌」までと大体同じ距離である。ウラジオストックまでの途中に今話題の「大和堆」があるが、ここからはかなり近い。




















この場所は、「海から望む朝日」と「海から沈み夕日」が見られることで有名である。かってはこの沖合は海路の難所であり、「狼煙」という地名のとおり、火を焚き、航海の安全を図った海上交通の要所であった。北に佐渡島、西に七ツ島、東に金剛埼があり、それに連なって北アルプスが望むことができるという。



















さらに、この崖下には「千畳敷」といわれる激しい波の浸食によりできた波蝕台がが広がっている。この一帯はアワビやサザエなど多数の海藻類などが豊富に採れる好漁港だという。


2021年10月26日火曜日

珠洲国際芸術祭(2)蛸島駅 珠洲焼

 珠洲国際芸術祭(1)見附島 さいはてのキャバレーの続きで、その後、旧奥能登鉄道の最終駅の「蛸島駅」についた。旧奥能登鉄道といえば、廃線になって久しいが、穴水駅から蛸島駅まで約60kmに30駅もある鉄道で、一駅一駅が非常に短かった。私は一度だけ乗った記憶がある。東京に就職した次の年の夏に帰省した時に、同級生の親が「恋路海岸」で民宿を営んでいたので、そちらの方に遊びに行った時にこの電車に乗って行った。海沿いを走る眺めの良いところだが、何しろ単線で一駅一駅で止まっている時間が長く、帰りは混んでいて、穴水まで立ちっぱなしで2時間近くかかったという記憶がある。




















駅のホーム側に行くと、今はひっそりしていて、終点駅の車止めが残っており、そこで線路が途切れている。



















反対側を見ると、道路で断ち切られた線路跡に設置された、黄色から橙、濃いピンクと色を変えながらうねるように作られたパイプで作られたものがあった。



















この空間から双眼鏡を覗くと、能登鉄道の終点だった旧蛸島駅の先に作家からのメッセージが見える(Something else is possiblue)(?)。かっての終着点とその風景の先にある未来を望むという。



















昼時になったので、蛸島駅付近の食事処に入ったが、満員だったので少し走り、「珠洲ビーチホテル」のレストランで「ビーフカレー」を食べた。肉は柔らかくおいしかった。



















さらに進むと「珠洲焼資料館」があった。残念ながら資料館は休みで中は見れなかったが、建物の脇に中国の第一の陶都・景徳鎮の磁器と中世日本を代表する焼き物珠洲焼を混在させ、大陸との交流や文化のあり方を問う作品だという。
























靴やスリッパなど日常に使うものを焼き物した変わったもあった。



















「中国」と描かれた容器の焼き物もある。一つ一ついったい何に使われていた焼き物なのか考えてみるのも面白そうだ。



















「珠洲焼資料館」の向かいには「珠洲焼館」があり、そこにはいった。「珠洲焼」は、須恵質の中世陶器で、器面を叩き締めた条線状の叩き目に技法上の特徴があるという。器種も多くあって、甕・すり鉢・壷などの日用雑器が主体であるが、花瓶・水差し・小仏・神像・経筒・椀などもあり、かって能登を代表する特産物として量産されたという。



















ここには多くの高級そうな珠洲焼の品物が販売されていた。



















2021年10月22日金曜日

珠洲国際芸術祭(1)見附島 さいはてのキャバレー

今回は、天気が良かったので能登半島の先端の珠洲市でやっている「珠洲国際芸術祭」を見に行った(9月25日)。まず、「軍艦島」として有名な「見附島」に行った。ここには3度目くらいであろうか?前回は子供たちが小学生のころだから約30年位前か?

家を午前7時半ごろ出て10時ごろに着いたが、やはり珠洲までは遠い。

この海岸は「えんむすびーち」と呼ばれる恋人の聖地となっており浜辺にある縁結びの鐘を鳴らしてカップルが愛を誓うという。




















高さが29mあるという軍艦がこちらに向かってくるように見える島は圧巻で「能登のシンボル」となっている。前回は子供たちと連なった石を渡って島近くまで行った記憶がある。



















案内板には、佐渡から能登へ布教に訪れた「空海」が見つけたから「見附島」と呼ばれているという。また夜のライトアップや日の出の時間帯は見ごたえが一段と違うという。



















その後、「道の駅すずなり館」の中の観光案内所で「珠洲国際芸術祭」の作品のマップをもらいに寄った。まだ石川県は「万延防止重点措置」が解除になっていなかったので、外にある会場しかやっていないといわれた。雰囲気だけでも味わいたかったのでそれでOKである。



















ここのトイレの便器の上に写真があったが、「立山連峰」が素晴らしく見えるところのようだ。





近くに「さいはてのキャバレー」という興味をそそるような名前の場所があったので、そちらへ行った。ここは、かって珠洲と佐渡島を結ぶ定期船の待合室として使われた建物である。その後には物産館や食品加工所、レストランなどにも利用されたという。



















建物の中は改装されて「バーカウンター」のような場所があった。棚にはまだ何も置いてなかったが、この部屋は「珠洲国際芸術祭」に来られたお客さんの交流や憩いの場所として使われるそうです。



















部屋の片隅には、昔この辺りの人の生活に使っていたものが乱雑に置かれていた。白黒のテレビは映っていた。




















長押や黒ダンス、和傘、桐工芸火鉢などもある。



















外に出ると石で作られた珍しい卓球台があった。高校時代に卓球クラブに籍を置いたことがある私だが、やってみると昔と同じようには到底いかなかった。玉のはずみは木の卓球台と変わらなかった。海のそばのこういう場所で卓球をやるのも楽しい。
















さいはての地珠洲の内浦、外浦の海や地域独特の倉庫などを見た作家が、ビルの上に描かれた非日常なものを想像するという大きな絵だという。穴から付く出ている棒のようなものは何を表しているのだろう?




















珠洲の風景の特徴である屋根付きのバス停には、数学者であるというロシアの作家が水平垂直方向にアルミのパイプで包み込んで作品とした。これを「珠洲街道五十三次」と名うって他にも3か所に作られている。


2021年10月17日日曜日

能美市巡り(9)久谷陶芸村②久谷五彩館

 能美市巡り(8)久谷陶芸村①ビッグモニュメント 浅倉五十吉記念館の続きで、その向かいにある「久谷五彩館」に入った。他に「九谷焼陶芸館」では、絵付けや作陶体験ができるし、「九谷焼技術者自立支援工房」では、若手陶芸家の自立を支援する施設、工房やギャラリーを備えている。




















365年の歴史を持つ九谷焼は石川県が世界に誇る陶磁器であるが、ここ能美市をはじめ、金沢、小松、加賀などで生産されている。なかでも能美市は作家・職人や卸・販売業者が集結する一大産地となっており、「久谷焼の町」として名を発している。
























能美市における九谷焼産業の祖を築いたのは、佐野町出身の「斎田道開」である。1830(文政13)年にふるさとで佐野窯を興した道開は、生地づくりと上絵描きの分業を提唱するとともに、多くの門弟を育成し、一大産地へと発展させる原動力となった。






「パンフレット」より






























赤、青、黄の色彩を使って草花をきれいに表現



















竹田有恒の釉裏金彩の花瓶。有恒は昭和初期に釉下に金箔を貼る釉裏金彩を完成させた。

江戸後期から明治前期に活躍した寺井町出身の「久谷庄三」は産業久谷の「中興の祖」と言われている名工である。五彩を用いた細密描法の「彩色金襴手」を完成させ、欧米では「ジャパンクタニ」と称賛された。



















「釉裏銀彩四方鉢」中田一於作




















「赤絵金彩人物図大香炉」明治前期



















お皿の上面と側面さらに裏面まで細かい絵が描かれた煌びやかな色絵金彩の皿




















人間国宝の徳田八十吉作 3代徳田八十吉のものは、微妙な色調の違う色釉を用意し、丁寧に塗り分けることによって美しいグラデーション効果を出している。



















群青色の壁の床の間に置かれた美しい九谷焼


2021年10月14日木曜日

能美市巡り(8)久谷陶芸村①ビッグモニュメント 浅倉五十吉記念館

 能美市巡り(7)秋常山古墳群②の続きで、次に「久谷陶芸村」に行った。ここには、そびえる九谷焼の大きなモニュメントがある。これは先日亡くなった地元の陶芸家で、日本芸術院会員の武政昭敏昭さんが1993年に完成させたものである。

古墳の街並みに合わせ「銅鐸」の形をしており、高さは12.9mあるという。

























宇宙や動物を描いた6万枚の陶板と、狩猟や収穫を示す4体の陶像で、「太古からの流れ、時代のつながり」を表現している。





































































このモニュメントの隣には「浅蔵五十吉記念館」の建物がある。二代浅蔵五十吉氏は、九谷焼の伝統に現代感覚を取り込み、独自の世界を切り拓いたという。昭和59年に石川県の陶芸家として初めて日本芸術院会員に就任し、平成4年に久谷陶芸家としてはじめて「文化功労者」の栄誉に輝き、平成8年に文化勲章を受章した。



















昭和30年代から独自の器を生み出し、上絵付でも彩磁彩、刻象、磁象などの技法を次々の考案した。名実ともに九谷焼界をリードする立場になった晩年も、白金を用いた「白陽」と呼ぶ独自の彩色に取り組み、生涯を通じ新たな表現を追求した。

























































































一服できる部屋には、九谷焼の工程を紹介するビデオが見れ、ゆっくり勉強させてもらった。