2023年8月30日水曜日

北庄城址(福井城)

「三国湊レトロ町巡り」の後、福井市に入り、柴田勝家最期の城として有名な「北庄城」に行った。ここは、柴田勝家と信長の妹の「お市の方」が、秀吉との戦いで敗れ自害した場所で知られ、今年の大河ドラマ「どうする家康」でも大きな見どころとして放映された。



















織田信長が一乗谷にいた朝倉家を滅ぼした後、加賀などの一向一揆を滅ぼしすために、ここ北ノ庄を家来の中でも経験豊富な柴田勝家に越前8郡を支配させ、そして北ノ庄に築城させた。勝家は城下町を作り、商人や神社・寺院などを呼び寄せ発展させた。その後、福井城に引き継がれ、現在の福井の街並みができた始まりといわれている。























北庄城址の歴史の案内板


















柴田勝家が北ノ庄に築いた城は、その全容ははっきり分かっていないが、秀吉が戦況を伝えるために「小早川隆景」に送った書簡には、「蔵が高く築かれ、天守は九層に上げ候・・」と描かれている。しかし、丸岡城や福井城は笏谷石が盛んにの使われていたが、北ノ庄城はどの部分で使われていたかははっきりしていないらしい。また、城を訪れたスペインの宣教師のルイス・フロイスは九重の天守を見て、その壮観さに感嘆したといわれている。
下図はこのことから描かれた城のイメージ図である。


















柴田勝家の子孫であるとされる日本画家の「平山郁夫」氏揮毫による「お市の方」の慰霊碑が立っている。
























「お市の方」の銅像が立っていたが、信長の妹で美貌であったことで有名で、最初は浅井長政に嫁いで三姉妹を生んだが、小谷城で長政が信長に滅ぼされ自害した後、信長の重臣の柴田勝家に嫁いだ。勝家とともに自害する前に詠んだ辞世の句「さらぬだに 打ちぬるほども 別れを誘う ほととぎすかな」で、勝家の辞世の句にも「ほととぎす」の言葉が入っているという。






















「お市の方」の隣に大河ドラマなどでも出てきた有名な三姉妹の銅像が立っている。この三姉妹は「お市の方」が自害した時に家来により助けられたが、その後波乱万丈の人生を送ったことはよく知られている。
























現在の「柴田神社」は、北庄城本丸があったところに建てられ柴田勝家の像や、北ノ庄城の唯一の鬼瓦、勝家時代に造られた半石半木の奇矯、九十九橋に使われていたという石柱、九頭竜川に掛けられた船橋をつないだ鉄鎖が大切に保管されているという。




































勝家時代に造られた半石半木の奇矯・九十九橋の案内板




2023年8月27日日曜日

丸岡城(2)

 丸岡城(1)の続きで、城内に入ると外壁面には内側から小さな引き戸がある所は、鉄砲狭間である。



















出窓の隙間から鉄砲や弓で攻撃し、そしてその下の底板を開くと石落としができる。


















階段は、金沢城の三十間長屋の階段よりも傾斜がきつく狭いので、横についている紐に繋がらないと危なくて登れない。やっとの思いで上がった。



















柱も太く、天井の梁は非常に間隔狭く張られていた。何しろ天井が石でできているという非常に重いからであろう。


















二階のつくりの案内板

























三階のつくりの案内板





















最上階の廻縁に出ると、周りの家並みや遠くの山々の眺めが素晴らしい。














































天守の外側に「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石柱がったているが、これはここの藩主の先祖だった本多重次が戦場から妻に送った手紙として有名になっている。この手紙の文は簡潔で要を得た文として手紙の手本となっていた。私も小学生の時に先生から習ったのを覚えている。
























現在でも、この短い手紙のコンテストがあり、「一筆啓上賞」として、掲示されたいた。


















側溝の蓋には、細やかな丸岡城と「一筆啓上申し上げます」が描かれていた。

2023年8月23日水曜日

丸岡城(1)

 三国湊のレトロな町巡りの後、板井市の小高い丘の上に残る現存する12天守の国内最古の「丸岡城」に行った。「丸岡城」は、板井平野の丘陵を中心に築かれた平山城である。平野の南北を流れる竹田川と九頭竜川にはさまれ、北は加越山地を挟んで加賀と接し、加賀の一向一揆の備えとして築かれた。一向一揆を滅ぼした織田信長は越前を重臣の柴田勝家を治めさせた。勝家は甥の勝豊に城を築かせたが、次の本多成重に越前藩主・松平忠直の配流に端を発して丸岡藩が成立した。その後、城主が次々と変わり有馬氏が明治維新まで居城とした。昭和23年の福井地震で倒壊したが、7年後に元の建材を使い再建された。























































本多家の系譜が掲載されていたが、本多忠勝が岡崎城主をはじめとして、各藩の城主となっている。政重は加賀藩の筆頭家老となっている。
























藩政期には、ひょうたん型の本丸を中心に二の丸や東の丸などが配置され、周囲は内堀で囲まれている。内堀は最大90mあったというが、現在は埋められている。


天守は、二重三階の独立式望楼型で小ぶりある。前面には入母屋型の屋根が付いている。


















外壁は漆喰塗籠とせず下見板張りで軒裏などは木部を露出させている。
























石垣は、地震などにより大部分が崩れて積みなおしているが、矢穴技法を用いない野面積みであった。


















天守の屋根は笏谷石を囲下瓦で葺かれている。天守にかかる重さは1000t以上であるという。


















1階の屋根の東西の棟の鬼瓦も笏谷石の彫刻で、東側の鬼は口を開き、西側の鬼は口を閉じ、阿吽の対になっている。


















屋根の両側には張り替えられたもとの木彫銅板に復元した鯱が見えた。


















2023年8月18日金曜日

旧吉野谷村 里山の風景のジオラマ展

毎日暑い日が続き、少し涼しいところを行きたかったが、 出発が遅くなり1時間以内くらいで行ける場所ということで、白山麓方面へ行くことにした。すぐ昼飯時ということで「瀬名の道の駅」の近くにある人気店という「山猫」でそばを食べに行こうとして、店に入ったが既に蕎麦は売り切れで、1から2時間待ちという。そこですぐ隣の「うどん屋」に入った。



















隣の店が入れないということからか、ここも観雑していた。


















ここで珍しいメニューの「もつ煮込みうどん」と「山芋うどん」を注文し食べたら、今までに食べたことがない味だった。















店の前には、珍しく大きなバイクが置かれていた。タイヤが三つ付いているから安定した走りだし、風を切って走るから気持ちがよいだろう。ナビ(?)のディスプレイも付いていた。


















「道の駅」の建物の2階にはギャラリーがあり、ジオパーク世界遺産となった「白山麓の美しい風景」の写真が展示されていた。
「紅葉の手取渓谷」
























白山の一番高い「御前が峰」の頂上から見た風景





























白山頂上付近の上空から撮った風景。翠が池も見える。


















続いて旧吉野谷にある「工芸の里」鶉荘で、先日の「北陸中日新聞」に載っていた「里山の風景 ジオラマ展」を見に行った。
























このジオラマを作った山田外喜江さんがちょうど来ており、説明を受けながら見た。山田さんは、旧吉野谷村に生まれ育って、現在もここに住んでいるという。
昭和30年代頃の里山の風景を身近にある材料を使い、10年かけて作ったという。


















障子襖や畳造りの作業風景。ジオラマの台は「百均」で買ったケースの蓋を使っているという。


















神社の祭り時の獅子舞の風景


















雪吊作業の風景で、よく見ると細かいところまでうまく作っていて感心する。


















消防隊の梯子のぼりの風景


















屋根の雪下ろしに風景。この辺りは金沢よりもずっと雪の深いところであるから家族総出で雪下ろしをやっている。


















昔は電気を使わないで、用水の水流で大きな水車を回して動力とし、いろいろな仕事をしていた。


















昔の丸いちゃぶ台での食事風景


















洗濯は、たらいで洗濯し、このような長い板に貼って干している様子。私も小さいころ見た記憶がある。


















この後「工芸の里」に入る入口に大好きな「大判焼き」を焼いていたので、買って食べた。