2022年12月30日金曜日

東京(4)品川神社② 御殿山原庭園

 東京(3)品川神社①の続きで、さらに境内には多くのものが置かれている。

社務所横にある「手水鉢」には、珍しく河童の像があり、水難除け、無病息災を願うカッパだそうだ。そして上の板には葵紋と祭事の神輿の様子が描かれた絵馬が掲げられている。徳川家から崇拝を受けていたことが分かる。

























社務所の向かいには、「神楽殿」があるが品川神社例大祭で神楽が奉納される。年に4回拝殿にて奉納される太太神楽は東京都の無形文化財に指定されている。代々品川神社の宮司家によって受け継がれたもので、古い形態を残す見ごたえがある神楽として有名である。


















「神楽殿」の隣には、祖霊社が鎮座している。


















「品川神社」の階段を降り、左側を曲がり大通りに沿って歩くと、「品川女子学院」の高校・中学部門の建物がある。確かこの学校を昭和の女子演歌・歌謡曲の御御所「島倉千代子」が出た学校と聞いたが(?)。そして歌手になる前の子供のころに、「品川商店街」のイベントなどで歌っていたと聞いたことがある。


















「品川女子学院」の所で、左に曲がり坂を上がると陸橋に出る。その下は電車の線路が非常に多くある場所である。新幹線、東海道線、横須賀線、京浜東北線そして山手線と5線路が走っている。全国でも最もよく電車が走っているのを見ることができる場所のひとつで、数分眺めていれば何本かが通っていく。


















さらに坂の上に上がると、右手の森の中に「御殿山庭園」がある。以前旧原邸の庭園がであったころにその庭園を見たことがあるが、下図のような滝はなかったと記憶している。


















「御殿山庭園」は、「御殿山トラストシティ」内の南側の一角にある。以前は「御殿山ヒルズ」といっていたが、ホテル、マンションがあるツインビルが目印になっていて、他に品川教会も入っている。その一角に庭園がある。


















このあたりは旧原邸があったころの庭園そのままだろう。















この「御殿山トラストシティ」の敷地は以前、明治・大正時代の実業家の原六助が土地を購入し、その一角に養子の実業家である原邦造が1938(昭和13)年に自邸を建設した。設計者は当時の代表的な渡辺仁で、東京国立博物館本館や銀座の和光本館(旧服部時計店)などを手掛けている。しかし戦後GHQに接収され米軍将校の宿舎となった。接収解除後は外務省公館、フィリピン大使館、セイロン(現スリランカ)大使館となったが、その後10年以上は使われなかったが、原邦造の孫の原俊夫氏が、1979年に私邸を現代美術の原美術館を創設した。当初は、日本では現代アート専門の美術館は珍しく、「わけのわからない美術館はお客さんは来ないよ」と言われたりもしたとかで、かなりの異色の存在であった。現代美術館と言えば金沢の21世紀美術館などがあるが、ここがその先駆けである。

私も金沢に来てから、東京見物をしたときに原美術館に入ったことある。建物もそうだけど、展示されている美術品も従来のもと違う面白い作品があったと記憶している。その建物の内部にカフェテラスがあり、そこからこの庭園が眺められたと記憶している.
その原美術館も2020年に閉鎖されが、今は群馬県渋川市にある「ハラミュージアムアーク」として後を引き継いでいるという。






下図の江戸時代中期の品川周辺の地図を見ると、現在と同じ位置にあるのは「東海道」と「目黒川」だけである。地図の中央には「御殿山」があるが、3代徳川家光が鷹狩の際の将軍の休憩所や幕臣を招いた茶会に利用される館があったといわれる。見晴らしの良さから防衛の拠点としても使われていた。8代将軍吉宗の時代には、御殿山に桜が植えられ、花見の名所となった。
しかし幕末には、開国を求めるペリーの来航を阻止するために、砲台を備えた品川御台場が作られる。海中を埋め立てて砲台を築くために御殿山は北側をえぐり取るように大きく崩され原型を失ってしまったという。地図の赤印の点に砲台があった場所である。

江戸時代の桜の名所の御殿山から見た品川宿、江戸湾の絵図は葛飾北斎や歌川広重など多くの浮世絵師が描いている。

2022年12月26日月曜日

東京(3)品川神社①

 東京(2)北品川商店街の続きで、その後歩いていくと「第一京浜」の大通りに出る。この通りの向かい側の森の中に「品川神社」が見える。



















「品川神社」の由緒は

今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。

慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。

また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。

時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。

大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。

そして、令和2年(2020)に天皇陛下の御即位を奉祝し、「御大典記念事業」として、御社殿の修復を行いました。(品川神社HPより)



















ここの鳥居には、珍しく両側に龍が彫られている。東京には他に二つの神社しかないという。神社に入る階段は結構急である。



















右側には大きな亀の形をした石の上に「品川神社」の大きな標柱が載っている。左側には七福神のひとつ「大黒天」の石造が置かれている。


















階段の途中の左側に、また小さな鳥居があり、その先には階段が付いている。


















ここは、東京にいくつかある「富士塚」のひとつの「品川富士」である。階段入り口に「登山道」の石柱がある。「富士塚」とは、富士山信仰に基づいて、富士山を模して作られた山型の塚である。実際の富士山は遠くてなかなか行けないが、この「富士塚」を上ることで本当の富士山に登ったと同じご利益があるという。このような神社は都内に80個もあるという。


















この品川富士は、東京内では最大高さの15mを超えるもので、明治2年から5年にかけて作られたという。登山道の途中には大きな石に表面には何か彫って描かれたものや小さな祠などが置かれている。


















途中の階段は急で狭いので鎖が横についている。また、階段に沿って「1合目」から「九合目」までの小さな石柱が立っている。荒々しい雰囲気の大小の岩石が連なっている。


















「八合目」当たりの高台からは、都心方向に高層ビルが乱立しているのが見える。ビルがまだあまりなかった頃には、ここから隅田川の花火が見えたという。


















さらに頂上の方には、細かい岩石がいっぱいあり、いかにも富士山を上っている気分になり、よく作ったものだと感心する。


















階段を上がると、中央に参道があり拝殿前に小さな二の鳥居、三の鳥居がある。三の鳥居は1648(慶安元)年にこの神社の元別当寺である東海寺を建立した三代将軍徳川家光の側近・堀田正盛により寄進されたもので品川区の指定文化財だという。


















拝殿は赤色と金色が入った鮮やかな色の建物できれいである。実はここで私の子供たちが、「お百日祝い」や「七五三」をここでお参りした。もう何十年も前なので、どんな拝殿だったかすっかり忘れてしまっている。



















2022年12月21日水曜日

東京(2)北品川商店街

 東京(1)の続きでその後、一緒に行った妻が以前住んだいた近所の親しくしていた人と会い、駅前のカフェで現況とこの辺りの変わりようなどついて話を楽しんだ。そしてその後その人と、今まで私はあまり行かなかった「品川駅南口」を歩いた。

私たちがいたころは駅北口の前にデーンと建っていた「パシフィックホテル」が壊されている最中だった。今後ここは「リニア新幹線」の施設になると言っていた。

続いて、品川駅もすっかり変わったが、下の写真は駅構内の様子で、朝の東京のテレビに毎日のように出ているところだと言っていた。



















南口は、35年前とすっかり変わって大きな会社のビルが乱立しており、企業戦士が多くみられところだ。ビルの中にレストランやカフェも多くあり、平日の昼間にも関わらず多くの人を見かけた。この橋は少し古そうだが地図で見る限り「高浜運河」に架かる橋であろうか?


















さらに歩いていくと防潮のための「天王洲水門」がある。この辺りは、埋め立てられた運河が連なっている所である。
向こう岸に置いてある「帆船」は、明治時代から昭和初めまで使われた「東京水産大学?」の実習船「雲鷹丸」で、重要文化財になっている。

40年前にきた「天王洲アイル」付近は、空き地やグランドしかなかったという思い出があるがすっかり変わってしまった。


品川駅付近のホテルに泊まった後、次の日に品川駅から、昔よく行った「北品川商店街」を歩いた。下の写真は駅方面から見た新八ツ山橋方向をみる。ツインビルがある場所は「御殿山ヒルズ」で、右側の森は「三菱開東閣」である。

旧八ッ山橋を渡ると「北品川商店街」に入る。ここに「東海道品川宿まち歩きマップ」の案内板が掲げられていた。ここは東海道53次の最初の宿場町として繁栄し、勝手は数多くの旅籠が並んでいたという品川宿があった所である。京急の北品川駅から青物横丁駅にかけてがその中心で、目黒川をはさんで北品川宿と南品川宿に分かれていた。
















今は、江戸時代と同じ道幅の旧東海道に沿って商店街のび、往時をしのばせる古社寺や史跡もあちこちに残っていて、歴史散歩が楽しみな雰囲気の通りである。この道路は中央の車道が狭く、両側の歩道が割と広いが、車がすれ違う時は歩道にはみ出さざるを得ないが、それとも一方通行なのか、あとで気になった。












「プレシス品川」のマンション前に夜になったら「東海道品川宿」の明かりが点くのだろう。


















ここには、昔懐かしい雰囲気の果物屋さんもある。


















こちらは履物屋さんと昔懐かしい「たばこ屋」さんが横にある。私の子供時代の昭和30年代頃にはよくあった履物屋さんもたばこ屋さんも金沢でもほとんど見かけなくなった。


その向かいには「一心寺」というお寺があり、ここは1855(安政2)年に大老・井伊直弼が開山した寺だという。この近くに台場が築造されていたが、その守り神であろう。
江戸三十三観音霊場の札所でもあり、延命や商売繁盛のご利益があるという。
































ここのご本尊は不動明王である。


















こちらに家は、前の2階と横側が草花で覆われている。
























参勤交代の諸大名や公家・門跡が宿泊・休憩した「品川本陣跡」の石碑が立っていた。ココの公園は「聖蹟公園」といって、1868(明治元)年に東幸する際の行在所となったことからこの名が付いたという。


















大通りの手前を右に曲がると、浄土真宗本願寺派の「日夜山正徳寺」というお寺があった。


2022年12月17日土曜日

東京(1) 池田山 ねむの木

今回は、コロナ禍の旅行自粛も緩まり、10月末ごろに3年ぶりくらいで東京に行った。 

品川付近に約10年間くらい住んだので、久しぶりに東京の空気を吸いたかったのと、当時の近所の人と久しぶりに会うため、品川周辺がどいう風に変わったか見たいと思い出かけた。

まず、五反田駅付近で知り合いにあった後、そこから5,6分で歩いて行ける池田山にある「ねむの木公園」に行った。実はこの庭は上皇后美智子様がご成婚までを過ごされた、正田邸の跡地である。



















ここの玄関は、美智子様がまだ成婚前にここに住んでおられたころのままだという。ここの敷地にあった旧正田邸の建物は、昭和初期に建てられた趣のある建物だった。保存運動もあったが、解体され、その後、品川区が跡地を公園用地として2004年に公園として開園したという。


















約200坪の庭園には、約60種類の草花、50本の樹木が植えられている。池田山の閑静な雰囲気に溶け込んだ、ほっと心が和むお庭だという。



















正門を入るとすぐ左手に、ここのシンボルであるねむの木がそびえている。ねむの木はマメ科の落葉高木で、山野や河原に多く見られ、夕方に葉を閉じる性質を持っているという。
ねむの木の後ろの下側が茶色で上がカラスのものは、正田邸の暖炉をモチーフにしたガス灯である。夜間にはこのガス燈が灯り、庭を照らすという。
























「白樺の木」が植えられていたが、白樺の木にちなんだ和歌が描かれていた。
























こちらには多くのきれいな花が咲いており、ガラス板の向こうにも樹木や花がいっぱいある。


















上皇両殿下陛が傘樹記念に植えた「タラヨウの木」があったが、両殿下が和歌を古くから愛されたことから、古くから葉の裏に文字を書いて「はがきの木」として使われた木である。




































赤い「サルビア」の花が咲いていた。


















こちらには、「プリンセスミチコ」の札が建てられていた。奥に見えるのグループは近所を散歩するシニアの人達であろうか?ガイドの人がこの庭を説明していた。


















周辺に住宅地図があって、この庭の裏には「正田」と描かれていたが、美智子様の親族の家であろうか?


















近くには今話題のウクライナの隣国の「ベラルーシ共和国」の大使館があった。