2018年3月28日水曜日

額谷の石切り場跡、富樫氏の御廟谷

禪ヶ峯神社を見た後、山側環状線の額谷の交差点を山側に曲がって、七瀬川沿いの道をかなり奥に入っていくと、「石切り場跡」と「御廟谷」が描かれた遊歩道マップの立て看板がある。



















その付近に異様な大きな洞穴がいくつかある。ここは1827(文政7)年に、石工によって石に切り出しが始まった所である。ここの石は額谷石(ぬかだんいし)と言われ、柔らかく、火に強い石英凝灰岩が産出された。切り出した石はかまどやいろり、七輪、風呂釜などに使われることが多く生活に役立たれたという。


































20~30か所の洞窟がある山は、太平洋戦争末期の1943(昭和18)年には、三菱重工・航空エンジン部門の疎開先となり、強制的に連れてこられたり、またその他の手段により集められた朝鮮人を含む労働者による突貫工事で地下軍需工場として改造され、機械も据え付けられた。そして西金沢駅から鉄道を通す計画もあったが、軍需用として役目を果たさないまま終戦を迎えた。その後、一時石切り場が再開されたが、戦後の急速な近代化によって、セメント、コンクリートブロックなどの普及により必要なくなり、姿を消していったという。




















「石切り場」をさらに奥に入っていくと、富樫氏の代々の墓所とされている御廟谷がある。斜面には、土塁や堀切など城や館があった形跡が見られる。



















4段に分かれ、寺屋敷と呼ばれる上段は、富樫氏代々の墓所として供養されているが、富樫一族の居館跡または、家臣金子氏の居館とも伝えられているが定かではない。しかし、額谷町、大額町、高尾町一帯が富樫氏の根拠地であったことから見ても、一族や家臣分布地であったとする説が有力である。県の指定史跡になっており、後世に伝える重要な地域となっている。







































また、この横に「富樫氏史跡御廟谷」の石碑が建っていて、詳細な内容が描かれていると思うが、何が描かれているのか分からなかった。
























この付近は、道が狭くて竹藪が多く、額谷山の深い山間の中という感じである。

















2018年3月24日土曜日

高尾城跡② 禪ヶ峯神社

高尾城跡①の続きで、530年前にここで、日本の歴史に載っている大きな事件があったことについて、少し触れてみたいと思う。
1467年に応仁の乱が始まり、全国に戦乱が繰り広げられた。また、1471年には蓮
如上人が吉崎に来て布教し浄土真宗が北陸に急速に広まった。
このころに、富樫家の内紛が起こり、越前から加賀に広まりつつあった真宗高田派と本願
寺派が激しく対立し、応仁の乱の西軍に属する守護の幸千代につながりました。また、蓮
如と本願寺派は東軍なった正親と結び、富樫家とすれば兄弟の戦いが始まり本願寺派が勝
った。これを文明の一揆と呼ばれている。この戦いを通して石川や河北郡など本願寺門徒
は「群」と呼ぶ一揆を成立させた。





















守護に復帰した正親と本願寺門徒の一部が抗争を起こすと、蓮如は責任を負って吉崎を退
去した。その後も、一向一揆は戦いによって次第に強力化し、正親は守護の権力を回復す
るために、将軍足利氏の援助を得るために上洛し、過大な軍事費を使った。
過大な軍事費を負わされた加賀の民衆は、一向一揆を中心に白山宮などと手を結び、大叔
父の富樫泰高を大将に担ぎ上げ、政親に対抗した。正親は急遽帰国し、高尾城に籠った。
(長享の一揆)






















この図が一向一揆が高尾城を攻めている様子です。この絵図はいつ描かれたものかわかり
ません

































しかし1488年6月に高尾城は落城し、正親は自害した。その後、富樫泰高が一時守護
職を継いだが、実権は一向一揆がもち、富樫氏の勢力は衰え、これ以後、全国的にも珍し
加賀の国は「百姓の持ちたる国」に100年近く続くこととなった。一方、1570
(元亀元)年に守護富樫春貞が金沢市の伝燈寺で一向一揆門徒に討死され、富樫氏は完全
に滅亡した



















高尾城跡の見晴らし台を見た後、下の方へ降りると「禪ヶ峯神社」があった。
ここは、古くは八幡神社または筑紫宮と称し、現在地の西北800mの処にに鎮座していた。明治13年築紫的場神社と改称しさらに明治16年に現在地にあった高尾社へ移転合祀された。社名を地字により禪ヶ峯神社と称することになったという。



















ここの宮司さんは斎地神社と同じく、寺町5丁目にある八坂神社の宮司さんが兼ねている。

































境内にあった「春日灯篭」
























春や秋まつりなどの祭礼時に使われるのぼり旗の竿置き場

2018年3月19日月曜日

高尾城跡①

今回は、昨年の11月に私が所属している団体の仲間のサークルと行った「高尾城跡」を紹介する
山側環状線の「高尾南」の交差点から山側に曲がり、坂を登っていくと「県の教育センター」の建物がある。そこから急な階段の遊歩道を15分程度上ると「高尾城跡見晴らし台」に着く。





















「見晴らし台」からの眺望は最高で、右側の方向には、香林坊付近のビルなど金沢市街が見え、卯辰山の背後には宝達山も、兼六園の「眺望台」よりずっとはっきり見える。












中央には「金沢工業大学」の建物など野々市市街が見え、日本海もくっきり見える。










また、左手方向には、新幹線の高架橋や、海沿いにある大きな建物(ジャパンディスプレーの建物?)など松任方向や南加賀方面が見える最高のロケーションである。



















ここで、530年前に日本のを歴史揺るがす大事件があったということは以前から聞いていた。そこで、この高尾城でどんなことがあったかについて少し調べてみた。下の写真は、高尾台の高尾中央公園から右手の高尾山と左手の前山を撮ったものである。
標高170mの高尾山の「ジョウヤマ」は、1970(昭和45)年に、ここの土が適しているということで、北陸自走車道建設のための土取場と化した。しかし歴史研究家から、ここは歴史上重要な場所であるという指摘から、工事が中断された。その後に、城郭調査をし始めたところ、もともとは「ジョウヤマ」だけが唯一の城と思われていたが、現地に入ると思いもよらぬ巨大な城であることが分かった。



















下の「高尾城跡遺構図」の上方の曲線部分のところまでは、削り取られてしまったところで「ジョウヤマ」は半分以上が削られてしまっている。「ジョウヤマ」の後ろの「コジョウ」はそのまま残っている。黄色い部分が平らな曲輪、緑の部分が削って崖にした切岸、そして茶色部分が堀切跡を示す。「コジョウ」には虎口や畝状の堀切跡が残っていることから、背後から攻められないようにと防御したと思われる
高尾城跡遺構図 


下図の高尾城塞の見取り図は、この辺の調査結果を示している。深く切り込まれた中谷
(現在は万願寺川)、城谷川そして七瀬川の間に前山、高尾山の「ジョウヤマ」、「コ
ョウ」そして額山がある。その大きさは南北1.5km、東西1.5kmの広大なものであっ
という。ここは、自然の山や川、崖などを取り込んで、守りやすく敵を攻めやすく、
た、周囲が見渡せる絶好の場所として城を作ったものと思われる。

また「コジョウ」から額山に続く尾根沿いに旧道があり、堀切跡や石垣が残っているさらに奥に進むと周囲が崖に囲まれた三つの曲輪があり、額谷城があったといわれている。
前山にも堀切や平端部が見られる。城谷川をはさんで「ジョウヤマ」があることから、前線基地として守備を固めたのではないかと言われている。また前山の後部には、寺跡や井戸跡なども見られる。
前山、額山、高尾山は七尾城や鳥越城と同じく巨大な山城で、連郭式の縄張りといわれ、お互いが連携しあっていたという。


2018年3月14日水曜日

21世紀美術館(木のおもちゃ)

今回は、21世紀美術館で「木のおもちゃ」で遊べる企画をやっていたので、孫二人を連れて行った来た。(3月10日)



















建物の外にある、渦巻き状のカラープラスチックパネルでできた「カラー・アクティヴィティ・ハウス」では、孫達が走り回り、パネル越しに愛嬌を振りまいていた。そばにいたフランス人らしきカップルが「かわいい」と言ってくれた。「かわいい」は世界共通語となっているのか。



















金属のパイプと金網などで、複雑な形状をしていて、中で遊ぶことができる「ラッピング」

人気の「スイミング・プール」の前は、相変わらず人が多い。



















カラフルなフェルトで作る手作りの小物入れに、孫が教えてもらいながら挑戦していた。

エレベーターで地下に降りると、「木のおもちゃ」のイベントのコーナーがあった。






































部屋の中には、親子づれの家族でいっぱいだった。私たちのような爺さんと孫連れの人は少なかった。



















木琴でできている階段の上から木のボールを落とすと、「どんぐりコロコロ」のメロディーの音が鳴るので、うちの孫が何回も落としていた。



















木で作られたままごと遊び

いろいろな絵が紙に描ける木で作られたスタンプ

九州山地のヒノキ材を敷き詰めた、木の香りのするボールが20,000個ある。



















大きな穴の開いたボードの上を、両側のひもを引っ張りながら赤い小さな円プレートを、穴に落とさないように下から上まで上げるゲーム。最初はなかなかできなかったできなかったが、だんだんできるようになり、何んとか上まで上げた。

木のぬくもりを感じながら、遊んだり、手作りしたり、子供とコミュニケーションできる場所で、面白い体験ができた。

2018年3月10日土曜日

獅子ワールド館

「知田工房」の人から、「是非行ったらいいよ」と言われた「獅子吼高原」のゴンドラ乗り場の近くにある「獅子ワールド館」に行った。円形の建物の中のスロープを上がると、お土産屋の奥に「獅子ワールド館」があった。


































館内に入ると、獅子頭作りの工程が展示されていた。まず、「原木の輪切り」では、白山麓の桐の原木を輪切りし、乾燥される。知田工房では、乾燥させないで使う方が彫刻しやすいので、そのまま使うと言っていた。次に、ある程度の大きさにのこぎりで切る。そして荒加工で獅子の角を丸くし原型を作る。。



















続いて、あら取りした木をノミなどで彫って、大体の形にした後、丁寧に仕上げ彫りをする。塗りを下地塗り、中塗り上塗り、金箔押し、仕上げとして、下あご、みみ、角を組み立て、黒目を入れ、たてがみを付けて完成



















藩政末期には、芸能である獅子舞は、武芸鍛錬のカモウラージュに用いられ、一説によれば、幕府の目をごまかし、武芸修練の場として、山峡の聖地「剣」(現在の鶴来)が選ばれたという。現在、白山市には日本一大きい獅子頭があるとともに、7江戸時代に名を馳せた工匠らの作品が残されているという。
下の写真は日本一の夫婦獅子だという。



















富山県の獅子も飾られていたが、砺波や八尾と木彫で有名な井波の獅子もあった。



















獅子は、中国から伝わったというが、もともと中国にライオンはいない。
獅子の語源は、ライオンを意味する古ライオン語【Ser】で、ライオンは西洋の国では王権のシンボルだったという。ライオンと戦い、勝つことで勇気と強さを見せつけ、民衆の尊敬を集めようとした。人々はライオンの強さにあこがれと恐れを持ち、「神」に近いものだったという。ライオンというものを人づてに聞くだけだった東洋の人々にとっては、まさに幻の聖獣であり、空想の中で少しずつ姿を変え、獅子が誕生したという。
日本の獅子舞は、豊穣祈願や厄除けの祈りを込めて舞われているが、中国も日本と少し似ているが、面白い姿の獅子がたくさんいる。しかし獅子の強さ、気高さによせた敬意は同じだったと思われるという。アジア各国の獅子の姿はそれぞれの人々の思い入れあると思われる。
























「ランダ・バロン」というインドネシアの獅子


韓国の獅子は「案山子」のようで、怖さよりちょっと風変わりだ。



日本の獅子舞には、鹿踊りのように一人で一つの頭を付けて踊る「一人立ち」と一般的な獅子舞のように一つの頭に二人以上が入る「二人立ち」の二つのタイプがある。「二人立ち」には、胴体が布でできた幌型と、毛で覆われたぬいぐるみ型がある。ぬいぐるみ型は沖縄や九州などに見られる。また幌型には、中に二人はいるものと大勢が入る大獅子がある。
























沖縄の「名護大獅子」は、口を大きく開いて、大きな歯が見え、体は黄色の毛でつくられているが、本土の獅子とはずいぶん違う。
























獅子のルーツや歴史、あちこちの獅子が見れ、面白かった。
獅子ワールド館の帰りに、近くの獅子吼付近の渓谷風の流れが見えた。