2012年9月27日木曜日

東京散歩(2)人形町

前回の護国寺の続きで、地下鉄を乗り継いで人形町に行った、
人形町は江戸時代に職人や商人が移り住み、歌舞伎小屋や
芝居小屋が開かれたという。
そこで使う人形を作る人形師も多く住んでいたからその名が付いた。

まず、水天宮に行った。ここは安産と子授けの御利益で知られている。
境内でゆっくりしていると、まだ3ヶ月くらいの赤ちゃんを抱いた人が多くいた。
「百日参り」であろうか。
腹帯を求める人や戌の日には参拝者が多いという。








































甘酒横丁というところがあったので、甘酒を飲もうとしたが
まだ暑いので売っていなかった。
商店街は下町情緒があふれ、よし梅芳町亭の建物は登録有形文化財
になっているという。
また、その前あたりに古い井戸があり、押して水を出してみたが、
勢いよく水が出て、大変風情が感じられた。









































昼食に入った店は麺類の店であったが、かなり多くの客が入っていた。
また、「玉ひで」という店は「元祖親子丼」が老舗の味でおいしいということで
有名らしく長い行列ができていた。
大通りの歩道には、落語をテーマにしたからくり時計の「人形からくり櫓」
があった。




















平日の昼時であるが、多くの人が歩いていた。さすが東京だなあと
思った。
以前、東京に来たときには、谷中、根津、千駄木などを歩いたが、
次回の「東京散歩」が楽しみになってきた。


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2012年9月22日土曜日

東京散歩(1)雑司が谷、護国寺

今回は野暮用で東京へ行ったので、空いた時間に東京散歩した。
以前に東京で勤務していた会社の同期の友人が一緒に付き合って
くれた。
山手線の目白で降りて歩いていくと、途中から唯一都電が走っているという
都電荒川線があった。
その線路に沿って歩いていると、東京にいた頃の30年位前に昇った池袋の
サンシャインビルが見えた。
そこからすぐの鬼子母神に行った。
ここは安産、子育ての神として有名である。








































境内の一角には樹齢700年ともいわれる大イチョウが茂っていた。
幹周り8m、高さ30mということで、前の通路から全体を写すのは無理であった。




















その後、雑司が谷霊園に行った。ここは明治の初めに開設された都立霊園で
数多くの著名人が眠っているという。
わがふるさとの文人の泉鏡花の墓も見つけることができた。本名の鏡太郎の
名前が刻まれていた。




















私の小さいころ映画でよく見た、イケメン映画俳優の大川橋蔵の墓が鏡花の墓の
すぐ近くにあった。




















他に、金沢の湯涌温泉ゆかりの美人画で有名な竹久夢二、誰もが知っている
小説家の夏目漱石の墓も見ることができた。








































次に、5代将軍綱吉が開いたいう護国寺を訪れた。
ちょうどお葬式があり、多くの喪服姿の人が通って行った。
八脚の仁王門をくぐって参道の奥に観音堂と呼ばれる立派な建物の
本堂があった。
本堂は江戸時代のいくつかの火事、関東大震災、東京大空襲などすべての
災厄を逃れ創建時の姿をそのまま残しているという。
ここも金沢の観音院と同じで旧暦7月9日に「四万六千日の供養」があるとのこと。










































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2012年9月15日土曜日

静明寺

8月末まで、寺のお宝の絵を見せてくれるということで、材木町にある
静明寺に行った。
平日の午後の暑いときだったので、私のほかに誰もいなかったが、
境内を掃除していたお寺の奥さんらしい人が、親切に説明してくれた。




















まず岸駒の虎の絵があった。
岸駒は金沢出身で、京都で活躍し、金沢城の二の丸御殿の障壁に絵を
描いてほしいということで招かれ、ふるさとに錦を飾った。
岸駒は虎の絵を描かしたら右に出る者がいないというほど有名である。
そして、岸駒の絵の隣に息子の岸岱の龍の絵があった。




























































その他に、慶長年間(今から約500年前)の絵や、日蓮上人の涅槃図
もあった。まわりに泣き悲しんでいる人の絵には、ていねいに一人ひとりの
名前が書いてあった。








































このお寺は徳田家の菩提寺で、徳田家のお墓が代々あった。
秋声は「不安のなかに」という作品で、この静明寺を訪れ、父母が眠っている
墓を参っていることを描いている。
境内には徳田秋声の立派な墓碑があった。これは文化勲章を受賞した
井上靖が揮毫したものである。その横には靖が秋声の功績などを書いた
石板があったが、よっぽど尊敬していたのだろう。








































またこの寺は、大村益次郎に師事し、大村とともに活躍し、兵制の近代化に
尽力したが、京都で暗殺された安達幸之助の家の菩提寺でもある。
活躍した功績を説明したたて看板があった。
安達幸之助は加賀藩の足軽であったが、江戸に出て全国版で活躍した人である。

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2012年9月9日日曜日

観音院

旧暦7月9日、年一度だけ本尊が御開帳され、この日のお参りすると
四万六千日分の御利益があると聞いて、観音院にお参りに行った。
観音院に登る階段が急なので、結構しんどかった。




















ここは、高野山真言宗。本尊は行基作の十一面観音で宗派に関係なくお参りが多い。
三代藩主利常夫人が寄進し、以後安産の神として信仰を集めた。
利常の次男の利次(後に富山藩主)がお宮参りをしたときに、子供が謡を謡っているのを
面白がって帰ったのを聞き、観音院の住僧や町の人々が集まって、神前で囃子を行った。
このことから、代々藩主の手厚い保護を受けてきた寺で、利常の時代から250年にわたって
神事能が行われてきた。








































家の入り口にとうきびを下げると、悪魔がそれを嫌って近寄らないといわれ、
一年元気に働けて、家内安全、商売繁盛をするといわれている。
それでこの日に、一年間ぶら下げていたとうきびを返し、新しいとうきびを
買っていく人がたくさんいた。




















本堂でお経を聞いていたとき、隣にいた年配の人に話しかけたら、ここずっと
卯辰山寺院群を巡っているという。寺院群のパンフレットを見せてもらったら
マーカーでびっしり塗りつぶされていた。よく歩いて寺を巡っているのだろう。


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2012年9月5日水曜日

魚住為楽の工房

長町の民家の一角にある魚住為楽の工房を訪ねた。




















人間国宝の三代魚住為楽(安彦)さんが説明してくれた。
砂張という銅と錫の合金で、銅鑼、仏鈴や風鈴などを作っている。
材料から製品までの一環製作で、銅と錫のインゴットを溶かすことから、
粘土、籾殻、や炭の粉など混ぜて型を作っている。そして、鋳造作業をやり、
鋳造品を削ったり、槌でたたいたり、やすりで磨いたりして成形していく。
最後に、漆を塗り、焼いて色付けをする。
その工程は、いろいろな作業があって、出来上がるまでに1年以上かかる
ものもあるという。




























































銅鑼は、茶の湯や出船の合図などに使用されるが、銅鑼の中央のヘソ
をポーンとたたくと長く余韻が残る。
ちょっとたたかせてもらったが、その音色と長い響きに気分がよくなった。








































先代の魚住為楽がいろいろ試行錯誤して、形状などを開拓していったが、
やはり「勘」と「こつ」だけが頼りだという。
銅鑼製作の「こつ」は特に槌うちと焼きいれにあるという。

次のあとを継ぐ若い魚住為楽さんは、外側に彫刻や象嵌で模様をつけた
花瓶、器、や置物など作り、能楽美術館横の店などで売っている。
直に魚住為楽さんの家に行けば、安くしてくれるとのことであった。




















三代の魚住為楽さんは私と同じ高中の卒業生で、昔の高中時代の話題に
話が弾み、親しみを覚えた。

以前に行った宮崎寒雉の工房と同じで、古い町並みの静かなところで
作っているとは驚きであった。
金沢の伝統工芸は、このようなところで作っていることが多いのだなあと思った。

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