2023年1月29日日曜日

13代藩主の能登巡見巡り(1)概要

 昨年6月から7月にかけて2回にわたって仲間3人と、江戸時代末期に13代加賀藩主斉泰が、国防のために行った「能登巡見」コースのうちの何か所かを巡ったので紹介する。

1858(嘉永6)年4月4日に13代加賀藩主前田斉泰は、江戸への参勤交代程ではないがなんと700人余りの供を連れて、能登一巡の旅に出た。外浦を経て、内浦から崎山半島を回り、石動山を超えて25日に帰城した。























巡見は22日間、延べ行程が480kmで、歴代藩主で能登を一巡したのは斉泰だけである。終始ご機嫌だったという斉泰は42歳だったという。

下図は当時描かれた行程図の一部









当時、開国を迫る諸外国の動きに幕府は神経をとがらせていた。広い海岸域を領する加賀藩でも。異国船の騒ぎがたびたび起きた。そのような時代背景に中で、海防に関わる沿岸視察を目的に、藩主自らが巡見出でた。主な視察対象はお台場や御蔵(藩米の収納蔵)、武器御蔵や港などである。

下図は当時の外国船を描いたもの













巡見の御触れ(通達)には、「受け入れ施設や通行の道路も普段のままでよい。下々に迷惑のかからないように」という内容が記されたが、藩主と多数の随行人の受け入れには、道普請や家屋の改築改装など、様々な形で地元の負担がともなったという。しかし、住民にとっては藩主の能登来訪は前代未聞のことであり、嬉しい反面緊張する複雑な思いで迎えたことであろう。

下図は当時のまま残る巡見路で、輪島市深海町に残る旧道

















下図は宿泊本陣になった能都町小木の法融寺 藩主来賓にあわせ、寺では2部屋を新調し、畳などを入れ替えたという。




15年後には明治維新を迎える幕末期に行われた藩主の能登巡見は、混乱もなく終わったが、この巡見で特筆されることは、海防視察以上に藩主が興味を持ったのは、能登各地の風物・産物・人々の暮らしを実際に見て歩いたことである。事前に通達していたこともあり、各々の場所から産物などが献上されるなど、22日間の旅先でのエピソードは語りつくせないほどあるという。

下図は当時の献上品が描かれたもの


珠洲市正院町の須受八幡宮の能舞台で、ここでこよなく能を愛した斉泰は百姓能を上覧した。竹生島と狂言「禰宜山伏」を楽しんだと伝えられている。












また、藩主は歓迎に出た能登の人々に優しい気遣いを見せたという。そして4種類の漁法視察や各地の海岸線の景勝地や滝などの探勝、別所岳や石動山の登山、さらにキリシマツツジや農村で働く人々の鑑賞など、初めての能登を興味深く見て回った。










ノトキリシマツツジ(2003年の新聞記事から)
















巡見を終えた1か月半後に、浦賀沖に黒船が来航し、以後は加賀藩も維新の波にのみ込まれていった。










巡見の成果はよくわからないが、改良された道路は住民や旅人の往来に貢献したし、さらに藩主自らが巡ったことで、日ごろは生活苦にあえぐ領民達の感情も和らいだのではという。

とにかく表向きには海防視察であったが、斉泰には他に別の思いがあったのではと思われるほど楽しい巡見であったと推測する。

後日のブログには、私たち仲間と巡った5か所(宇出津、上時国家、喜夛家(十村役)、岡部家(十村役)、石動山)を紹介していく。 

2023年1月25日水曜日

長町武家屋敷跡 ごはんカフェ くりの樹

今回は、 長町武家屋敷跡周辺に用事があり、終わった後で仲間とランチに金沢町家を改装した「ごはんカフェ くりの樹」に行った。

「野村家」の横の通りを少し入ったところにあり、1年半前にオープンしたという新しい店である。






































こじんまりとした和室2部屋にテーブルが五つ置かれていた。壁は群青色になっており、欄間の黒色の板には洒落た文様が描かれていた。こういう雰囲気の店のランチはさすがに女性客が多い。


















床の間には、尾山神社の宮司さんの「福寿」と描かれた掛け軸ときれいな生け花が飾られていた。窓側の障子も洒落た文様になっていたおり、その下のテーブルには金沢伝統工芸品の「加賀てまり」が置かれていた。


















縁側からは古風な庭が見え、朝に降った雪がうっすらと残っており、古い木々や飛び石のほかに多くの灯篭が置かれていた。


















庭の斜め奥には、九谷焼の「鏑木商舗」の庭が見え、その手前には左官業の石動家の屋敷である。


















早速、おひつに入った地元の「ひゃくまん穀」のごはんと7品のおかずが付いてきた。さすがに「ごはんカフェ」だけあって、暖かいおいしいごはんと新鮮な食材を使ったおかずはどれもおいしくいただいた。


















デザートのわらび餅とコーヒー


















帰り際には、玄関横に素敵なブローチやイアリングなどのアクセサリーが並べられていた。


















安政期の地図を見ると「野村家」の隣に「不破家」そしてその裏には「入江家」が載っているが、現在はそれら敷地がいくつかの家に分かれたのであろう。

















「ごはんカフェ くりの樹」からさらに路地を進むと、昔ながらの土塀とは違うが、見た目では上面は白漆喰で下面が板状(?)の立派な長い塀が連なっている家があった。この辺りの風情に合うように建てられたのであろう。


















この後、「くりの樹」の後ろにあたる長町武家屋敷跡の一番の見どころがある武家屋敷の土塀が並ぶところにある「鏑木商舗」の隣に「ソイルフッラグシップショップ」という店に入った。ここもオープンして約1年半ぐらいだという。


















左官の技術と珪藻土、保湿性のある材料からいろいろな製品を作っていて、その展示販売している店だという。珪藻土と言えば「七輪」などはよく知られているが、ここでは、カップ、コースタのほかに、風呂上りなどに使うマットがあった。濡れた足を載せても保湿性があるためすぐ乾くという面白いものを見た。


2023年1月21日土曜日

コロナ禍の金沢おでん 赤玉

今回は第八波が猛威を振るっているコロナ禍であるが、飲食店は普通に店を開いているということで、久しぶりに片町のおでん屋「赤玉」に行った。

ここは、金沢名物のおでんが有名になり、金沢に新幹線が来て以来、観光客がいっぱいで行列になっているのを、バスや車からよく見かけていた。今日は午後6時ごろに行ったが、三日連休の最期の日とあっていつものような行列はなかった。(1月9日)


2階は予約席で、1階は当日席となっており、店前に行列で並ばないように店に入ると機械で整理券を取り、間近になると電話サービスもするらしい。
店内はコロナ対策がかなりなされており、カウンター前や隣のお客さんとの間にアクリル板が置かれていた。以前には行った時とはずいぶん変わっていた。


















ようやく座ることができことができたが、一番隅の席だった。早速、昔はなかった「おまかせメニュー」というのがあって、それを注文した。突き出し、お刺身(写真は2種類食べた後でお申し訳ない)、串カツとおでん3種類とドリンク(ビールまたはお茶)が付いてきた。メニューも変わったなあと思った。


















リーズナブルな価格で、これだけで十分だったが、久しぶりに来たので、「ばい貝」、「ガンモ」や「イワシのつみれ」を注文した。やはりおでんが好きで、お酒もついつい進んでしまう。

「金沢おでん」は片町・香林坊あるいは金沢駅、小立野辺りにもあるが、いずれも約90年の老舗が多く、それぞれで店で出汁の味とサイドメニューが違うので、食べ歩きするのも面白い。コウバコガニのおでんの「かに面」は食べたことがないので、一度体験したいと思っている。


















時間がたつにつれてお客さんが少なくなってきた。やはりコロナ禍でさすが長く飲む人は少ない。


















店から出て「片町スクランブル」周辺を見ると、まだ午後8時ごろというのに、随分人が少ない。やはりまだまだ人は戻ってきていない。


2023年1月17日火曜日

東京(7)東京都庭園美術館③

 東京(6)東京都庭園美術館②の続きで、その後建物の外に出た。正面玄関より左側面から見える建物の外観で、1階の丸い柱の奥はには「大客室」、円形に突き出た場所は「大食堂」である。2階にはベランダがある。



















建物の近くに咲いていた「キミガヨラン」(?)























「オシップ・ザッキン」という面白いオブジェ

























池周辺は「日本庭園」となっており、「築山林泉式」庭園で旧浅香邸の建物に調和した庭園を造ったものと思われる。江戸時代には讃岐高松藩松平家の大名庭園だっが、明治維新後に陸海軍の火薬庫、白金御用地と変遷しているという。

















茶室前には、趣のある赤松が植えられている。


















重要文化財となっている旧浅香邸の茶室「光華」は、武者小路千家の茶人である中川砂村が設計し、大阪の数寄屋大工棟梁平田雅哉は施工し、昭和11年上棟されたという。茶席は小間、広間、立礼席の三席からなる。


















立礼席は明治の初期に裏千家が外国人のために考案した椅子式点前の茶席で戦後各流派家元の茶席に普及したが、戦前では珍しいという。天井が高く、全体に明るく開放的な造りとなっているのが特徴である。アール・デコ調の本館に調和した施主である殿下の好みが反映している。


















旧浅香邸の裏には「新館」が建てられており、そこの庭を眺めながらのカフェテラスがあり、ここで一服し、ランチタイムを取った。
































カフェテラスからは「ダイオウマツ」という2本の大きな松が見えた。
























他に「芝庭」と「西洋庭園」がある。「西洋庭園」は新しく造られたものだが、広場にはテーブル・椅子やパラソルなどが並べられ、訪れた人たちが一服している。


















その周りには、大きな古木が何本もあったが、藩政期の大名庭園時代のものか(?)










































「西洋庭園」の周りには、大きな「スダジイ」とアメリカ帰りの「ワシントン桜」がたくさん植えられていた。ここ庭園では、さまざまな植物があり四季折々に楽しめて、見ごろには色とりどりの花々など見れるので、散歩にはもってこいの所である。


















東京都庭園美術館から目黒駅までの帰りの道路







2023年1月13日金曜日

東京(6)東京都庭園美術館②

 東京(5)東京都庭園美術館①の続きで、さらに館内を見学する。

大広間は柱型と水平ライン、天井の格子縁、2つのアーチなど、直線とシンメトリーを基調としてデザインされているという。中央の重厚なマントルピースが全体を引き締め、後ろの鏡は天井照明を映し出し、部屋の奥行に広がりを与えている。

























マントルピースは暖炉の炉を囲む飾り枠として壁に設けた装飾である。イタリア製の大理石ポルトロの金の帯柄模様である。



















次室は大広間の控えの間としての機能を持っている。中央には、フランス国立セーブル製陶所で設計された白磁の「噴水塔」が設置され、その上の天井は白漆喰ののドームで周囲に間接照明が仕込まれているという。白色の陶器、黒漆の柱、赤漆の扉、朱色の人造石など日本の伝統工芸崎品に見られる色合いを取り入れている。以前には上部の照明器具に香水を施し、照明の熱により香りを漂わせたという。
























賓客との会食時に使用された大食堂は、大客室と並び浅香宮邸の中でも最も華やかな部屋である。庭側に丸く張り出した窓が開放的な空間を醸し出している。大理石の柱や省壁に銀灰色の壁面レリーフ、ガラスパネルの扉がある。窓の下にある暖房機(ラジエター)のカバーには、だ魚や貝の装飾がなされている。





































サンルームの機能を持つベランダの床は黒と白の市松模様の大理石が貼られている。ここのベランダからは素晴らしい芝庭が一望できる。
























階段手摺には鋳物の装飾金具が付いている。浅香宮邸室内の多くはブロンズ製である。






















姫宮寝室前の照明器具は、階段ホールより外光が得らるのでステンドグラス用の色ガラスを使用している。この浅香宮邸には多くの照明器具があるが、廊下の一部以外は、すべて異なったデザインとなっているのが特徴であるという。
























セーブル製陶所で焼かれたコーヒセット



















ラパンの花瓶










































ガラス製の金魚模様の花瓶




















デンマークで焼成された3羽のペンギンの陶器。同じ型から成型しているが焼成時のわずかな変形により3羽とも少し違う表情をしている。