2021年11月29日月曜日

手取ジオパーク巡り(3)七か用水 ①

 手取ジオパーク巡り(2)旧加賀一の宮駅 金名線の続きで、「加賀一の宮駅」の近くにある「七か用水」を管理している「白山管理センター」に行った。

ここは、「大水門」の操作及び幹線水路の水配分を行う場所として設置されたが、平成9年より従来の施設用途のほかに休憩・学習機能と水門を一元管理する場所として改築された。








ここで、係員から七か用水の概要について説明があった。










「白山管理センター」の建物の横を階段を降りると「大水門」がある。「大水門」は、七つの用水の取り入れ口をまとめ、安定的に用水を引くために、明治時代の後半に手取扇状地の扇頂部に位置する安久涛の渕の凝灰岩をくりぬいて作られた。しかし昭和9年の手取川の大洪水により、この場所からの取水が困難になり、700m上流に新たな取水口が作られた。



















手取川の向こう側の「道の駅 しらやまさん」から見える安久涛の渕付近で、「大水門」は木の陰で見えない












明治36年に「大水門」とともに竣工した「給水口」は、隧道からの出口である。













昭和12年に、川の水を水力発電に利用するために大水門の上流に堰を作り、水路と発電所を作った。昭和24年にはこの堰で農業用水もとるために、さらに50㎝高くして「白山頭首工」とし、もう1本水路を作った。この頭首工により、効率的に川から水を取り入れやすくなった。

下図は「白山管理センター」に掲載されていた頭首工の写真であるが、いつごろ撮ったものか?



















現在の頭首工の給水口


















下図は七か用水路の変遷図で、江戸時代は手取川から左岸に七か所、右岸に1か所直接取り入れていた。明治36年頃には大水門から取り入れて、幹線水路から7か所に分けられていた。そして昭和43年以降は大水門よりさらに上流の白山頭首工より取り入れて、3か所の小発電所がつくられた。また、昭和30年代には左岸の「宮竹用水」が右岸の七か用水幹線用水路から、手取川の下を通って「逆サイホン」の原理で導水するようになり、安定した水が流れるようになった。











「七か用水」は現在では金沢市、野々市市、白山市、能美市、小松市と広域にまたがった用水路となっていて、この用水が米作りなど農業用として大きな役割をしていることが分かる。

この図で一番右側の金沢よりの石川線に沿った用水路があるが、これが「高橋川」で、身近によく渡っている川であるが、これが「手取川」から来ている水だと初めて知った。


2021年11月23日火曜日

手取ジオパーク巡り(2)旧加賀一の宮駅 金名線

 手取ジオパーク巡り(1)弘法池 手取渓谷の続きで、「七か用水」を管理している「白山管理センター」の近くに「北陸鉄道石川線」の「旧加賀一の宮駅」の建物がある。今回は、ここ「旧加賀一の宮駅」と「金名線」について紹介する。昭和2年には、「神社前停車場」という駅名で始まったが、昭和12年に「金名線」と「石川線」の接続駅になり「加賀一の宮駅」となった。昭和59年に「金名線」が廃止され、「石川線」の終着駅として使用されたが、平成21年に石川線の一部が廃止され、82年の歴史を閉じた。令和元年に駅舎が改修され、2階建ての入母屋造り、唐破風の入り口を持った「白山比咩神社」の門前駅舎を意識した建物に改修し、今年「国指定有形文化財」に指定された。

































「鶴来」から「加賀一の宮」まで走っていた懐かしの電車や乗車券などの写真が貼られていた。



















また「旧加賀一の宮駅」で使用されていた備品が展示されていた。



















線路があったところは舗装された道路で「サイクリングロード」になっていて、「旧白山下」まで続いている。近くに自転車できている人が休憩していた。



















「旧加賀一の宮駅」から「白山下駅」までは14駅あり、手取川に沿って走っていた。1980年の旅客運賃表を見ると、「旧加賀一の宮駅」から「白山下」まで420円、「旧加賀一の宮駅」から「野町駅」まで420円と、ちょうど中間点だ。





































1926(大正15)年に白山下~八幡(郡上八幡)間の地方鉄道延長戦敷設申請がなされた。その後、終点が八幡から白鳥に変更されたという。下図はその一部で、他に「建設費用概算書」や「営業収支概算書」も提出された。白鳥からは「長良川鉄道」などと接続すれば、その名のとおり、金名鉄道(金沢~名古屋)が形成するということであった。しかし急勾配の山岳路線や営業収支などの、いろいろ困難が予想され、許可が下りず、壮大な夢は幻に終わったという。


















「手取温泉駅」は、「旧加賀一の宮駅」と対照的に洋風造りであった。以前は「手取遊園駅」として金名線が旅客誘致を目的に、北陸鉄道が昭和30年に開設した遊園地があったが、1970(昭和45)年に閉園した。子供のころにここへは来ていると思うが、あまり印象がない。その後、ここは「バードハミング」として、プールや温泉、宿泊所、ほかにテニスコートやバーべキューコーナーがあり、私も10から25年くらい前にテニスの大会や合宿などで何度か利用した。

















「白山下駅」で折り返しを待つ電車と、ここから白山登山のための「市ノ瀬」へ行くバスが出ていた。「白峰」や「一里野」ゆきもあったのであろうか(?)写真の左端のバスはまだボンネットネットバスである。





2021年11月18日木曜日

手取ジオパーク巡り(1)弘法池 手取渓谷

今回は、石川県生涯学習センターの現地講座ということで「 手取ジオパーク」を巡った。集合場所は「道の駅 めぐみ白山」で、そこからバスで手取川周辺を数か所回り、講師がいろいろと解説してくれるということだ。

「道の駅 めぐみ白山」からは、昨日初冠雪した「白山」がきれいに見えた。また、近くにはコスモスが咲き乱れていた。(10月22日)


































鶴来を超えて、「黄門橋」付近に「弘法池」がある。ここの昔話に、立ち寄った僧がのどが渇いたので立ち寄った老婆ににも水を欲しいと依頼したら、険しい崖を降りて手取川まで水を汲んできて、この僧に差し出した。ありがたいと感謝しながら、、周りを見渡し錫杖を使いグルグル地面を掘ると、冷たく清らかな水が滾々と湧き出てきた。僧は名前も名乗らず立ち去ったが、老婆から聞いた村人は錫杖から「空海」と信じ、いつしか「弘法池」と呼ぶようになったという。弘法のおくり名をみだりに使うのはおこがましいと地名を「釜清水」となったという。
























全国的にもめずらしい甌穴(おうけつ)の湧水で市指定の天然記念物となっている。白山の火山活動による流紋岩質岩盤が手取川の浸食により形成された直径75㎝、深さ2mの甌穴から湧き出しており、1年を通じて1日の湧水が30m2という。日本の名水百選になっている。すぐ横に蛇口があり、多くの人がそこへ水を汲みに来ている。






































「黄門橋」から「手取渓谷」を見る。何度か来ているが、いつ来てもこの渓谷は見ごたえがある。






















































「黄門橋」の一つ上流の「不老橋」の上から上流側の眼下の景色で、大きな岩が所々にあり、その岩は穴が開いていたり、穴に入った石が水の流れで回転することによってできた、さらに大きな甌穴(ポットホール)のいろいろな形状のものが見られる。両側からは滝が流れていて見ごたえがある。



















橋の下流側も、さらに深く切り込まれ、両側の岩が高くなっており、荒々しい峡谷が見られる。
























下流側には「夫婦岩」という二つ並んだ奇岩もある。そのうちの一つはめがね岩と呼ばれ、浸食によって柱状の岩の根元に穴が開きめがね状となっている。














「渓谷」といえば一般的には、山と山との間の傾斜地にできるが、ここは日本でも珍しい平地にある。手取川による下方浸食によってできた「手取渓谷」は「対山橋」から「黄門橋」まで約8kmに渡り20~30mの絶壁が続く。初夏の新緑、秋の紅葉の時は白山の眺望と相まって素晴らしい景色となる。



2021年11月13日土曜日

オールドノリタケ展

 今回は、県立美術館で「オールドノリタケ展」をやっていたので、妻が見たいということで見に行った。今回は珍しく作品はカメラOKだった。

























オールドノリタケの始まりは明治前期で、当時欧米各国で万国博覧会が催され、日本など異国の関心が高まりを見せていた。そのような中で明治政府の殖産興業の方針により生産が強化されたのが、輸出用の陶磁器である。オールドノリタケが製造されたものこの時期だったが、他の輸出陶磁器と他の輸出陶磁器と違うのは、政府の援助をうけることなく独自の海外販売拠点を築いたのが民間企業であるノリタケの祖・森村市左衛門と豊の兄弟によるものだという。
1876(明治9)年に市左衛門と豊は東京・銀座に「森村組」を創設した。当初は瀬戸などから素地を仕入れて東京・名古屋・京都の絵付け工場で装飾を施す方法をとっていた。その後、絵付け工場は名古屋に集結され、1937(明治37)年には現在のノリタケカンパニーリミテド本社がある場所に「日本陶器」が設立された。



















オールドノリタケは動植物や人物、風景など数えきれないほどのモチーフを持っていたという。その創作に大きな影響を与えたのが大倉孫兵衛である。1893(明治26)年大倉はシカゴ万国博覧会で目にしたものが、輝くような白い素地に流麗な絵付けを施した西欧の陶磁器であった。違いを感じた大倉は意匠を改めるべく現地で鉛筆や絵の具などの道具類や見本を買い付け、専属の絵付け工場の画工たちに画風の転換を要請した。つまり森村組の製品は他社に先駆けて、洋風の絵柄、装飾文様、構図、色彩などを取り入れて洋風画へと転換した。これにより西洋風の花鳥や人物・風景などのモチーフが器を彩り始めた。





































































オールドノリタケに描かれた風景には、オランダ画家からの影響が指摘されている。西洋の風景であれ、中東の風景であれ、景色のほとんどに水が描かれていることである。

































森村組や日本陶器の主な顧客はアメリカ人だったが、時間的、文化的に遠いものへのあこがれがあり、彼らにとって東洋の国のほかに、オランダ、いにしえのエジプトやギリシャ、さらに自分の住むアメリカの先住民も対象であったという。こういう異国趣味をモチーフとするの作品も手掛けた。


































アールヌーボーとは、19世紀末から20世紀初頭にフランスから始まり、装飾芸術から絵画や建築まであらゆる分野に波及してヨーロッパから日本まで席巻したスタイルである。
ここでの作品には、花や昆虫などの自然のモチーフ、しなるような曲線の多用といったアールヌーボーの典型的な特徴を見せている。金やエナメルによる多彩な技法を組み合わせた華麗な表現がオールドノリタケ式アールヌーボーの一つの特徴であるという。









































2021年11月8日月曜日

珠洲国際芸術祭(5)珠洲シアターミュージアム 光の方舟②

 珠洲国際芸術祭(4)珠洲シアターミュージアム 光の方舟①の続きで、「大蔵ざらえ」で出てきた多くの民具など前の会場の中央の周りに観覧席があり、そこに多くの人が座って待っていた。そこで何があるのか最初分からなかったが、しばらくするとあたりが暗くなり、中央の広いスペースに映像が映りだした。


そこには、古代の地層から掘り出した砂を敷き詰めているという。周辺には木造船や古いピアノが置かれている。















































荒々しい海になったり、陸になったり、昔から変わらない珠洲の情景を浮かび上がらせている。映像とともに、楽器の奏でる演奏や珠洲の祭りや浜へ寄せる波、風、地域の響く音が聞こえてきた。

































天井にもその光景が映っていた。



















球状の物体が浮かんで動いていたが、いったい何を表しているのだろうか?



















また、空から雪や雨が降ったりして、周りにある珠洲の民家を「蔵ざらえ」して出てきたものと組み合わせが不思議な感じがした。



















この外浦に立つ建物の中でのシアターミュージアムは、場所的にも最後に行く場所で、もう夕方の5時近くになるのに大勢の人が見物していた。

この外浦の海岸線は奇岩があちこちで見られる。途中にカメラマンが多くいた場所があったが、何を映そうとしているのかと思ったら、奇岩の穴に夕日が入る光景を映そうとしている人たちだった。
















私も映そうと待っていたが、まだ時間がかかりそうなのであきらめた。結局、金沢へ着いたのは午後8時過ぎとなった。