2022年7月27日水曜日

総持寺祖院(3)

 総持寺祖院(2)の続きで、さらに中庭には、二つの池があり、ピンクのハスが咲いていた。



















この中庭には、多くの花や樹木が植えられ、四季を通じて楽しめ。荘厳な伽藍とのコントラストはすばらしく、春は桜やツツジ、初夏は新緑の木々、秋にはもみじやイチョウが見ごろとなる。また冬の景色も素晴らしくモノトーンの風景は水墨画のようだという。











「大祖堂」の裏手にある「放光堂」は入母屋造り向拝付きの納骨堂で、大火後1910(明治43)年に完成した伽藍である。正面には地蔵(放光)菩薩が祀られている。



















階段を上がると明治の大火を免れた開祖瑩山紹瑾禅師の霊廟で、本山が鶴見に移転してもここが祖廟であることの証である。1822(文政5)年の再建である。























「山門」の前に戻り、受付の「香積台」の建物方向を見る。



















この道は「峨山道」といって、この「総持寺」から羽咋「永光寺五老峰」にいたる約50kmの能登半島の中央を貫く難路の古称である。この寺の二祖峨山しょうせき禅師は総持寺の2代と永光寺の4代の住職を兼ねていて毎朝早く永光寺の朝の勤行を勤められて、この峨山道の難路を超えて、ここ総持寺に馳付け、総持寺の朝の勤行をされたと伝えられている。


















二祖峨山禅師のこの行いをたたえる石碑が「峨山道」の入り口に立っている。この「峨山道」について昭和7年に黒元稼働氏が「峨山超記」を著して峨山往来を世に紹介し、また氏の筆跡による「峨山堂」を戸室石で刻んだ標石を各要所に建てたものが草むらの中に残っているという。

















現在の境内から少し離れた門前の町中に五院の塔頭がが並んでいるが、そのうちの一つ「興禅寺」は、1426(寛正3)年通峰和尚によって開かれた。境内には二祖峨山禅師の作と伝えられる地蔵が安置されている。


2022年7月23日土曜日

総持寺祖院(2)


 総持寺祖院(1)の続きで、その後総持寺の中央にある異様に大きな建物「山門」を見た。2階建てで総ケヤキ造りで、高さが17.4mもあり、間口が20m、奥行き約14.4mで、1932(昭和7)年に当時の祖院監寺(監院)真鍋魯侑師の尽力と信者の祖院再建の熱意により、名工柴田真次氏が棟梁となって完成したものという。





















楼上に観音、地蔵の二菩薩を放光菩薩として安置し、廻りの高欄には十六羅漢、五百羅漢の古仏を祀ってある。また2階正面の「諸嶽山」の扁額は、前田利為公の筆になり、畳1枚の大きさがある。


















「山門」をくぐると、広い長方形の中庭があり、その庭を囲むように大きな建物が並んでいる。下図は境内の配置図








右手の大きな建物は、「仏殿」である。「仏殿」は1912(大正元)年に再建された入母屋造りで、真口20m、奥行き16.3mの宏大な建物である。


















内部には、正面に御本尊釈迦牟尼如来を祀り、右に大権修理菩薩、左に達磨大使の尊像が安置されている。左側の前の襖の書は山岡鉄舟の大作で、雄渾な筆跡は本院において書かれたものである。


















左端には、能登地震復興がなされたとして黒地に金色で「禅」と立派に描かれた板が置かれていた。

「仏殿」の手前にある建物は「香積台」で、1953(昭和28)年に再建された切妻造り2階建てで、中には総受付や僧侶の居室、接客室などを備えている。





「パンフレット」より









「山門」の向かいに位置する大きな建物は大祖堂(法堂)で、総ケヤキ造り、32m四方の入母屋造りの大伽藍で明治31年の大火の後、最も早く再建にかかり、1910(明治43)年に完成された。

内陣正面壇上に開祖瑩山紹瑾禅師、左右に高祖道元禅師と二祖峨山禅師および五院開基の各霊位を祀りってある。中央の大天蓋は加賀横山家の寄進によるもので、豪華金色に輝いている。

正面欄間に掲げられている14枚の欅の透き彫は開祖瑩山紹瑾禅師の誕生、諸国行脚などの一代記を謹刻したものであり、法堂正面の上部左右の見事な彫刻とともに、山形県高畠の高山富十親子二代と福島県二本松の彫刻師の力作であるという。


















中庭から左手にある建物は「僧堂」で、曹洞宗において、自己修行の座禅を行う最高の道場が座禅堂である。1930(昭和5)年に再建されたもので、間口20m、奥行き14.55m、重層瓦葺で、書院風の火灯窓と白壁が美しい。


入口には座禅のための合図に使うのか(?)鐘と太鼓が置かれていた。
























囲いがされていて中には入れなかったが、内部前には「選仏場」と大扁額が掲げられているがので、ここで朝夕修行僧が座禅に励んでいるはずだが、最近の新聞に大乗寺の雲水が一人もいなく、「僧堂」はやっていないと描かれていた。ここはどうなのだろうか?


















しかしたった今「ブラタモリ」を見ていて知ったが、この総持寺が「輪島塗」を全国に広めた理由であることが分かった。このお寺の「大祖堂」の内陣に置かれている多くの仏具は「輪島塗」でできているが、ここが曹洞宗の大本山であった頃に、ここでの修行僧たちが全国各地にお寺を作り、そこで「輪島塗」の仏具を使ったことから広まっていったという。


2022年7月18日月曜日

総持寺祖院(1)

 今回は、輪島市門前町にある「伝統的建築物群保存地区」の「黒島」を見たいと思い、車を2時間走らせて行った。しかし「黒島」に着いたのは11時30分ごろとなったので、お腹もすいたので、昼飯を食べたいと思い、もう少し走らせて「総持寺」付近の「蕎麦屋」に入った。その後、昨年が創建700年という「総持寺」を先に見ることにした。ここには、以前から2度くらいは入ったことがあると思うが、何年前に入ったかは忘れてしまったし、その頃はあまりお寺に興味のなかった頃で、どんなお寺だったか全く忘れている。まずは、「三樹松関」の高い門をくぐった。



















この「三樹松関」は、明治の火災を免れた数少ない建物の一つで、上に扁額が掲げられ、700年の伝統を支えてきた正門である。
「総持寺」は、1321(元亨元)年に瑩山紹瑾禅師によって開創され、その後に全国に各地に発展し 一万数千の末寺を数えたが、不幸にして明治31年4月13日の火災にかかり、七堂伽藍の大部分を焼失してしまった。地元の人たちの長いもむなしくこれを機会に、神奈川県鶴見に布教伝道の本山を移すこととなったが、地元民や関係者の努力によって、次々と堂宇が再建され、火災を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などの建物とともに、七堂伽藍が完成し、約2万坪の静寂な境内の山水古木と調和して、開山霊場を護る祖院として、ありし日の曹洞宗大本山総持寺の面影をしのばせているという。



















手水舎はわりと新しい建物で、屋根瓦下の軒には珍しく金色になっていた。


















その先の右手にある建物は「芳春院」で、前田利家の正室芳春院が1609(慶長14)年に建立したもので象山じょうん禅師が開山で、39代を経て今に至っているという。


















京都の大徳寺の塔頭の「芳春院」は有名で、私も2度行ったことがあるが、ここにも「芳春院」があった。






































参道の左側には加賀藩主6代前田吉徳公が寄進され、1743(寛保3)年の建立で、工事奉行大槻伝蔵の監督によって工事が進められ、建仁寺流の大工横山権頭吉春が棟梁となって建造されたもので、こけら葺き二層づくりである。


















堂内の一切経を納める輪造は、八角宝形造りで、地下に装置した轆轤によって回転するようになっており、漆塗り鍍金金具付きである。私が見た輪造の中でも一番美しさがあると思われる。江戸時代の建造物として石川県指定有形文化財となっている。








 









明治34年の4月夕刻に大祖堂より火災が発生し、広大荘厳な大小70余棟の建物や境内の草木なども炭儘化したが、この奥にある二本松は当時の勅使門の左前のあったが、この松のお陰でその幹は焼けたが、「輪蔵」を類焼から護ることができたので、その後この松を「火伏の松」と称した。
























ここの鐘楼(鐘鼓楼)は、朝夕に諸行無常の門前に響き渡る大鐘で、聞く人に心の安らぎを与えてくれるという。ここには鐘のほかに太鼓もある。
























鐘楼の向かいには「白山蔵」には展示物が置かれ、下図は大火前の江戸時代の総持寺の全体図である。


下図は絹本着色の色鮮やかな法衣を着た「瑩山紹瑾禅師像」の掛け軸である。














2022年7月13日水曜日

野町界隈(3)千手院 光専寺

 野町界隈(2)旧三間道  諸江屋 少林寺の続きで、「北国街道」沿いに「三間道」の次の路地には「千手院」というお寺がある。その参道の右側には「千手院」の標柱が立っている。また、左側には「野町」の標柱がある。「藩政の初め、松林や雑木林などの地であったが、城下町の拡大に伴い町地となったので、はじめ泉野町といわれ、のち、略されてこの名で呼ばれるようになった。」とあった。

























参道の左側には、多くの地蔵おかれた厨子や六地蔵の厨子などが並んでいる。




















その横には、「西国三十三観音」が安置されている。















さらに奥には「千手院13世の供養塔」があるが、この塔は4mの高さがあり、「宝○印陀羅尼経」を納めた塔で、笠の四隅に隅飾りがあり、四方の塔身には仏と梵字が刻まれている。
























初代利家はこの寺を崇拝し、末森の合戦以降、歴代藩主の祈願所となった。十一面観音は前田家からの預かりものだという。前田家からの祈願書状が入っていた「経筒」は、精巧な毛彫りで鶴亀と松竹梅の吉祥模様が施されている。


















また、次の路地の所には「光専寺」というお寺がある。寺の前には「親鸞聖人御廟所」の大きな標柱が立っている。
























ここは、文明年間(1469~87)に、僧・慶緑が蓮如上人に従って加賀を布教した折に石川郡に創建。佐々成正の重臣・黒川又右エ門が当寺に入って僧となって4世となった。慶緑は本願寺と誓願寺の紛争の際に本願寺のために功を成した。


















本堂




















ここの鐘楼は、1692(元禄5)年の住持である寂道誓のために尾張町に住んでいた森下八左衛門正勝が寄進したものである。


























鐘楼は複雑な木造建築となっている。




















境内には2本の大きなクロマツが、金沢市の保存樹となっている。樹高が20mと18mあるという。
























墓所の横には白い大きな建物は「宝蔵」か?


2022年7月9日土曜日

早朝の兼六園(3)蓮地庭

 今回は、「千歳台」、「霞ヶ池」周辺を歩いた次の日は、「梅園」から「蓮地庭」を歩いた。

この辺りを何度か歩いているが、案内板がある大きな石を見逃していたのか初めて見る。案内板には「明治記念の標」の日本武尊像の台座石だったという。1991(平成3)年に大修理をしたが、台座石はひび割れがひどく再利用できなかったた、新しい台座に替え、この台座は創建当時のもののために、ここに残すことになったという。




















長谷池周辺の小川は緩やかな流れである。


















その近くに咲いている花は「ヒイラギ」(?)




















「時雨亭」横の庭園と小川


















5代藩主前田綱紀が、この辺りの蓮沼だったところに池を作り、庭を作ったのが兼六園の始まりで、発祥の地である。


















蓮地庭の入り口にある「汐見橋」から見る「日暮橋」、「海石塔」付近。赤松が用水に倒れ掛かるようになっている。


















今日は、かなり水が増したのか普段流れている「翠滝」の水量の戻ったようだ。高さ6m以上で幅が1.1mあり、滝の音が素晴らしいところだ。紅葉の時期には周りの葉が真赤に染まり見ごたえのある。


















「翠滝」から池までの間は大小さまざまな石組がなされ渓谷風になっている。





























































園内最古の茶室「夕顔亭」

































「旧時雨亭跡」の所は古木が多く、現在は緑が葉が生い茂っているが、一部に目立つ赤いの葉が見えた。


















日本最古といわれる噴水もようやく普段の高さまで上がるようになった。


















「桂坂口」からのはいる「桜が岡」は4月上旬にはソメイヨシノが咲き誇るところだ。



















月見橋付近に咲いていたオレンジ色の花は「ヤブカンゾウ」か(?)根は漢方薬に用いられるという。