2021年8月28日土曜日

高松サービスエリア、千里浜レストハウス

 八田與一(よいち)の生家を見た後、「白尾」から「能登里山街道」に入り、「高松サービスエリア」で一服した。




















店内に入ると、まずぶどうが目に入った。
「高松ぶどう」は1919年に、金沢の市村栄太郎氏が山梨県からとりよせた「甲州」や「デラウエア」の苗木を「米も作れない不毛の地」と呼ばれた旧高松町の水はけのよい砂丘地に「デラウエア」を栽培したのが始まりという。2年前に100周年を迎え、「石川のぶどう」といえば「高松ぶどう」と呼ばれるくらいだ。今年のぶどうは粒が大きくて甘くおいしい年だと思う。



















「ルビーロマン」は、石川県砂丘地農業研究センターが14年の歳月をかけて育成したという新しいブドウで、巨峰の2倍の大きさがあり、糖度も厳しい基準以上でないとブランド名が付かない。今年の初競りでは、確か一房140万円という最高値で台湾の人が買ったと覚えている。しかし、最近韓国で同じような「ルビーロマン」を作っているという情報があり、どうなるのか栽培者にとっては心中穏やかではない。
























このサービスエリアからは歩いて海に出れるようになっていた。サービスエリアの駐車場から水着で海水浴ができるのは便利だ。そういえば、今から60年位前に中学校を卒業して、最初の夏の同窓会が「高松海岸」だった記憶がある。その時は、JR(旧国鉄)の汽車に乗ってきて、駅から10分くらい歩いたのを覚えている。













高松サービスエリアの前に、「能登里山街道」を利用して行ける「前田家ゆかりの史跡」が描かれた看板があった。この中で、私がまだ行っていない史跡は三つあった。一つは「石動山」で、これは今年の3月に行ったが、途中山道が通れなくなっていて、後で知ったのだが3月まで閉山だったので、後日もう一度チャレンジしたいと持っている。他には「末森城址」と「高爪神社」で、これも機会があれば行きたいと思っている。




















1か月前に「千里浜」を通ったが、その時は「渚のドライウェー」の砂浜はきれいな状態で快適だったが、今日は所々水溜りが残っていた。風が強く波が高かったり、大雨が降ると、このような水溜りが残るのだろう。その都度交通規制をかけなければならない。50年前は、そんなこと全く心配することがなかったが、今では、ここを管理している人は、保全、維持していくのも大変だ。

































続いて、「渚のドライウェー」の終着点近くにある「千里浜レストハウス」に行った。ここも以前から何度か来ているが、土産物店の方は変わらないが、その奥の方は随分変わったようだ。建物の海側の方はウッドデッキになっており、ここから美しい海をじっくり見ることができる。




















館内のレストランは最近リニュアルされたらしく、新鮮な魚介類や肉などを自分で焼いて食べる「浜焼きコーナ」がある。私はこういうところが好みであり、今までは能登では「七尾フィッシャーマンズワーフ」しか知らなかったが、もっと近くに海を眺めながら、一杯飲んで焼きたての魚や肉などを食べれるのは最高だ。海の近くでバーベキューもよいが、準備も大変だしここは手ぶらで便利である。



















しかし今日は、車であり、昼間からそんなに飲み食いできない。ということで「はまぐりうどん」を食べた。

2021年8月24日火曜日

八田與一(よいち)の生家

 深谷温泉 石屋を出た後、そこから車で10分以内で近いと聞いていたので、この際と思い「八田與一(よいち)の生家」を見に行った。今町付近まで来たところで、よくわからなかったので、近くの人に聞いてたどり着くことができた。非常に立派な家でびっくりした。両親たちは、この辺ではさぞ大きな農家だったのだろう。與一が四高に通っていた時に、ここから広阪の校舎まで片道10kmを毎日歩いて通ったというからすごいものだ。




















家の脇に「八田與一技師誕生地」の碑とその功績が描かれた石板が建っていた。

































家は明治38年に建てられたもので、典型的な「アズマダチ」で、間口が6間と広く、切妻屋根の下の三角部分の白い漆喰壁に、太い三重梁と貫と束が重厚な感じがする。大屋根と1階の庇の間が狭いがスペースがあるので、2階は天井が低い部屋と思われる。
内部は「オイ」(広間)の部屋が中心で、その部屋を構成する6本の太い柱が、この家全体を支える基本柱となっている。このころの農家の大きな家は、こういう形態が多いという。



















「八田與一の生家」のすぐ裏に「與一」が通った「花園小学校」があった。この学校の1階に「花園異人館」という部屋がある。ここには「ふるさと異人館」にはない「八田與一」の様々な資料や台湾との交流活動などの様子が展示されているというが、夏休みで学校が閉まっていたので、残念ながら見ることはできなかった。



















校舎の前には「八田與一」の銅像が置かれていた。烏頭ダムのほとりにある銅像は、作業服姿で何かを考えているときのポーズで、視線の先にダムが見える。







「ふるさと偉人館」より

















八田與一の功績については、『ふるさと偉人館」に展示されていて、このブログでも掲載しているが、改めて紹介する。

八田與一は金沢市の今町に生まれ、一中、四高、東京帝大土木科へと進んだ。その後、台湾に渡り、不毛の台地と呼ばれた嘉南平原の灌漑に大きな功績を残した。




















大学時代のノートが展示されていたが、ダムに関する図らしきものと英語のメモ書き描かれていた。





















嘉南平原に堰堤長1237mで当時東洋一の烏山頭ダムと総延長16,000kmの給排水路を整備し、台湾一の穀倉地帯に変えたという。大型土木機械を使用し、また工事関係者が安心して働けるように町も作ったという。






















































2021年8月18日水曜日

深谷温泉 石屋(3)夕食

 深谷温泉 石屋(2)館内②の続きで、温泉に浸かった後、お待ちかねの夕食に入った。

夕食は3階の広間を仕切ったところに呼ばれた。他の宿泊客とは全く接触がなく、コロナ対策は万全であった。そして座った席から、ここの自慢の「能舞台」が非常によく見える場所であった。加賀藩主が好きだった能楽の舞台は約100年ほど前に、石屋家6代石屋二左衛門によって作られたという。予約すればここの能舞台の解説もしてくれるという。たまにここで能が披露され見ることもできる。

石屋家六代・石屋二左衛門が能舞台を普請

石屋家六代・石屋二左衛門が能舞台を普請




















まず初めに出てきたのが「前菜」で、中央に飲む美容液・金沢の甘酒が置かれ、深谷産紫黒米のリゾット包み揚げややなぎ鰆の焼き物、くるみ煮などがあった。さそっく乾杯して頂くことにした。



















続いて七尾湾で獲れた旬の魚の盛り合わせで、「こぞくら」、「すずき」、「タコに赤貝」と昆布に挟まれた刺身は何だったろうか?





















「金時草うどん」と「治部煮」で、鴨肉やすだれ麩などが入っていた(写真は残りで失礼)




















辺りがだんだん薄暗くなり、雰囲気も変わってきた「能舞台」



















「能登牛」は熱い石の上でジュウジュウ焼いて食べたが、たいへんおいしかった。



















「能登サザエ」



















冷やし「加賀太きゅうり」は加賀野菜の一つだ。主に打木地区で生産され、直径で7,8cmもある。



















「加賀丸いも」の上にきゅうりやパブリカ、クコの実がのった酢の物。ねっとりとした食感の丸いもはおいしかった。



















ここで、加賀麩が入った椀物とごはんを食べた。
そして最期にデザートとしてミニケーキと果物が出てきた。久しぶりに高級旅館で食べた味は格別だった。



















次の朝風呂に入った後、朝食を頂いた。旅館のいつもながらの「干魚」、「生卵」など少しづつある朝飯は大好きだ。



















食事の下に敷かれていたペーパーシート



















2021年8月13日金曜日

深谷温泉 石屋(2)館内②

 深谷温泉 石屋(1)外観・館内⓵の続きで、さらに館内の展示品や部屋、庭などを紹介する。こちらの部屋は「瞑想の部屋」と言って「何も考えないでいる部屋」だという。




















こちらの部屋には「阿弥陀如来像」が安置されている。























こちらの展示ウィンドーの中には、藩政期の貨幣の寛永通宝をかたどった「両替商」の看板やはかりの「天秤」,古銭、そろばん、商家の銭箱、財布などが展示されていた。

「森八」などにも多くあるお菓子の「落雁型」や正倉院の屋根瓦などもあった。



















古墳時代の出土品



















廊下には何枚かの絵図が掛けられており、その中に加賀騒動で有名な「前田土佐守5代当主直躬」の肖像画があったが、加賀八家の前田土佐守がここの湯に入り病気が治癒したことが、この温泉の始まりとあることに関連があるのだろう。
























さらに「古鏡」や能面などの置物があった。



















古風な明かりが置いてある部屋から、縁側越しに庭園が見られる。




















緑の木々と飛び石の横に大きな白漆喰と石板からなる蔵がある。



















一服できる「休憩所」は古民家の茶の間風で、大きな火鉢(?)の上に自在鉤があり、小さな鉄瓶がぶら下がっている。

































廊下の片隅にある風呂上がりのちょっとした休憩所



















風呂場の横には黒ダンスの上に額の中に入った能面が飾られていた。



















「元湯石屋」の源泉は、「モール湯」といわれ、太古むかしの葦などの植物が堆積してできた亜炭層をとおって湧出するため植物由来の有機物や、重曹、天然の保湿成分を多くふくんでいる。宮本武蔵が傷を治癒したといわれる琥珀色した湯の色と、滑らかな湯触りが特徴で、美肌の湯としても知られているという。消化器系の症状や便秘にお勧めだという。






「新名湯図鑑」より