2019年11月29日金曜日

晩秋の金沢2019(1)玉川町~金沢城

今回は、金沢の町中を歩いていて木々がかなり色づいて、きれいだなあと思ったので紹介する。(11月21日)
玉川町の「近世資料館」のレトロなレンガ造りの建物と黄色のイチョウの葉



















銀行や証券会社などが並んでいた金融通りからホテル、マンション通りに代わってしまった「上堤町」辺り。旧北国銀行本店跡には、マンション(?)が建設中である。

































「尾崎神社」の境内から見た朱色の社殿と紅葉



















「黒門緑地」内にある「高峰譲吉の父の「精一」の茶室



















金沢城黒門からみる「大手堀」は、唯一藩政期時代からの堀である。
金沢城新丸から見た「医王山・戸室山方向」と「大手門方向」




























「お堀通り」沿いの堀と石垣、紅葉



















金沢城「切手門・旧第六師団司令部の建物」辺りの紅葉



















 太い古木の中に生えていた紅葉


2019年11月26日火曜日

北信越ドライブ(3)秋山郷③天池

北信越ドライブ(2)秋山郷②の続きで、さらに中津川の上流に進み、405号線から外れて小道に入り、オートキャンプ場を過ぎると「天池」がある。



















ここまでくると人があまり見かけなくなる。しかし静けさの中に紅葉と池が非常にきれいなところである。



















紅葉は残念ながらまだちょっと早かったようで、最盛期にはもっと真っ赤に染まるのだろう。




















しかし、赤と黄、緑の葉のコントラストが素晴らしい。ここでは白い白樺の木も多くあるので、日頃見れない紅葉の景色である。
























池の水がきれいで、水面に木々の葉が映り込み、落ち葉が水面に浮かんで神秘的な雰囲気である。大きなカメラを持った人が場所を探りながら一生懸命写していた。



















この時期に早く赤くなった葉は、やはりきれいな景色となるので写したくなる。後方に見える山は鳥甲山か?



















ここからまだ「秋山郷」の奥に入りたかったが、今日泊る「野沢温泉」には遅くついてしまうのでここまでとし、戻ることにした。途中赤いアーチの「前倉橋」付近では、美しい渓谷が見えるところで、車を止めて絶景を眺めた。




























この橋の両側には「結東層」と呼ばれる約1800万年前の日本海ができはじめたころの海底火山の活動によって玄武岩という黒く固い火成岩から構成される地層を見ることができる。春には新緑、秋には紅葉とエメラルドグリーンとのコントラストの素晴らしい景色を見ることができる。



















この「秋山郷」は思った以上に素晴らしく、もっと見たい場所がいっぱいあったが、また機会があったら、この近くの温泉でも入りながらじっくり巡りたいものだ。

2019年11月23日土曜日

北信越ドライブ(2)秋山郷②石落し、蛇淵の滝

北信越ドライブ(1)秋山郷①見玉不動尊の続きで、その後、「405号の国道」を渡り向かい側に行くと「津南見玉公園」があり、奥の方に歩いていくと中津川の対岸に通称「石落し」と呼ばれる断崖絶壁を見ることができる。



















ちょっと早かったが、紅葉と池とこの絶壁は見事な観光スポットで、これは「ブラタモリ」でよく言われる「柱状節理」である。時にはこの「柱状節理」が崩れ、ガラガラと音をたてて落ちることから「石落し」とよぶようになったという。










30万年前に噴出して流れ出た苗場山の溶岩が厚く堆積したものを中津川が30万年以上かけて浸食したことで生み出された岸壁は、岩肌が柱状に見える。これを「柱状節理」というと案内板に描かれていた。



















この「柱状節理」の高さは、中津川の川床からなんと330m(東京タワーと同じ高さ)もあるというから驚きだ。































続いて、中津川に沿って奥に入り、昼食のために「山源木工」という店に入った。ここで、「山菜そば」と「天ぷらそば」をたべた。さすが山奥だけあって、山菜の味がとてもおいしい。





























店内には秋山郷の天然木を使った工芸品が所狭しと並べてあった。



















店の近くにある階段を降りると、大きな滝が見れるということで降りて行った。約10分くらい急階段を降りると「蛇淵の滝」の展望台に着いた。この滝は、新潟と長野県の県境を流れる硫黄川から中津川に注ぎ込む滝である。




































 この「蛇淵の滝」には大蛇伝説がある。この後、上り階段は大変だったが、何とか上ることができた。


2019年11月20日水曜日

北信越ドライブ(1)秋山郷①見玉不動尊

10年以上前に妙高、飯縄、斑尾、志賀高原や渋温泉、万座温泉などを訪ねたことがあるが、今回は、久しぶりに北信越地方をドライブに行った。そして、前々から一度は行きたいと思っていた、秘境「中津川渓谷」がある「秋山郷」を訪ねた。(10月31日)
「秋山郷」は、長野県栄町と新潟県津南町にまたがる地域に点在する集落を「秋山郷」と呼び、豪雪と連山に閉ざされた秘境の地である。



















1980年には「日本の秘境百選」に選ばれたが、その要因として江戸時代の文人・鈴木牧之(ぼくし)の存在が大きいという。鈴木牧之は1828年あきに秋山郷を訪れ、「秋山紀行」などを著したという。牧之の旅の発端は「秋山郷は平家の落人の村かどうか」であったという。牧之は「中津川の清流で命の洗濯をしたい」と記したという。



















まず、秋山郷の入口の牧之が旅の初めに1泊したという「見玉不動尊」に行った。ここは、眼病にご利益があるという古刹である。ここの山門は、寺院の守護神として金剛力士像が両脇に置かれた「仁王門」である。また、仁王は健脚を守ると考えられ、「大わらじ」が奉納されている。金沢の卯辰山寺院群の中にある「全生寺」と同じだ。

































山門と本堂の間の参道や階段の横に豊富な水量を持った、何段にも落ちる滝が流れていた。また、周りに老杉巨木に覆われている。




































石垣の前には一筋の細い水も落ちていた。この辺りは大きな滝や清水があちこちにあり、真夏でも暑さを感じない自然に恵まれた霊地と言われている所である。
























本堂には本尊として「不動明王尊」が祀られていて、眼病に特に霊験があり、昔から多くの眼病治癒の逸話が残っているといわれる。
















そして境内に「不動明王像」や「阿弥陀如来坐像」、「千手観音像」など八つの仏像が並んでおり、「干支が〇〇人は〇〇の仏様をお参りください」と描かれていた。自分の干支の仏様に丁寧にお参りしてきた。



















大黒天の上には六地蔵とボケよけ観音がある。



















今が採り頃の「銀杏」がたわわに実っていた。
























お土産屋の前に猿(?)が上の石を持ち上げている面白い石塔があった。

2019年11月15日金曜日

中央通り町の小路(4)法船寺

中央通り町の小路(2)の続きで、さらに歩くと「法船寺」というお寺がある。はじめは尾張の国の犬山にあったが、開山念誉一公上人は、前田利家、利長に従い、越前府中、越中守山、富山と移り、1599(慶長4)年に金沢城移城に伴い、現在の犀川詰の旧地に寺地を拝領した。五枚町から古寺町に入る角にあった。1631(寛永8)年に金沢の町は大火に見まわれ地所を一旦返上するが、1701(元禄14)年の現在の地に堂宇を建立した。



















山門は江戸時代のもので古めかしく、また高くなって上に上がれるように周りに手摺が付いている。「上に上がって太鼓か何かを鳴らしていたのでは」とここの住職が言っていた。










山門のすぐ裏にある小さな石造物は「正月の寒さ あたらしい 人の袖」は「小松砂丘書」と刻まれていた。
























その横には、石垣積みの基礎上に「名号塔」が建っている。方形枠に一段掘り下げて「南無阿弥陀仏」と花押が刻まれている。江戸後期に活躍した「義賢」が揮毫した。
























ここは、江戸時代から地蔵信仰霊場のひとつであったという。山門の裏にも地蔵さんが置かれている



















法報会の会員より新しいお地蔵さんが境内に安置されていて、地蔵祭りが行われる。
地蔵大菩薩四十八か所詠歌にも巡拝46番目に指定され、御詠歌もある法報会の地蔵建立の目的は、自分一代で絶えてしまう家、また、仕事の本拠地が遠方であるために、お参りに来れなくなってしまうであろう人々の祖先の霊をその地蔵尊に守っていただくことである。
1631(寛永8)年に、この法船寺から出火した火災は城下をなめつくす大火となり、金沢城も焼失した。これを契機として、城内に水を引くために「辰巳用水」が造られた



















このお堂の中には「薬師如来像」が祀られているという。薬師講が盛んであったことがあり、そのお祭りの時は露天商も建ち並ぶ賑わいを見せていたという。



















「義猫塚」は「法船寺のねずみ退治」という昔ばなしに関連する石塔である。代々の住職が「義猫塚」として手厚く祀っているという。
この話は享保年間に存誉上人が住職をしていた時で、この法船寺に年老いた大鼠が住みつき、お経や仏具などを食い荒らすので、飼っていた猫に「あのドロボウネコを退治してみよ」と話しかけたが、「自分だけではできないので、能登にいる強い猫を呼んでくる」といって姿を消した。数日たったころに、本堂の天井裏でものすごい格闘の音がした。そして天井の隙間からポトリポトリと血が落ちてきた。天井裏に上がってみると猫より数倍大きいネズミが食い殺され、二匹の猫も力尽きて死んでいた。手厚く上人がなきがらを埋葬したのが「義猫塚」という。
























このお寺の裏側には多くのお墓があった。



















「法船寺」前の大通りに「旧寶船寺町」の標柱ががあった。「寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年、宝船路町に改められた。」とあった。