2016年1月31日日曜日

2016雪景色の兼六園(1)

ようやく昨日(1月25日)金沢に21cmの積雪がありました。昨日は久々に家の前の「雪かき」に負われました。今日は、一転して朝から青空が見え、今年は、もうあまり見れないかと思い、雪景色の兼六園を見に行った。午後になったので、既に気温が上がっていて、かなり溶け始めていた。
金沢の地名の由来となっている「金城麗澤」




















前田家の先祖といわれている「菅原道真」を祀ってある「金沢神社」




















梅林にあった小さい赤い実がなっていた


























雪とのコントラストがきれいな「八重寒紅梅」




















まだわずかにしか咲いていなかった「白加賀」




















梅林の雪吊された木々と小川と「時雨亭」。全体的には梅はもう少し時間が経つときれいに咲くだろう。




















水面が凍っている「瓢池」




















「瓢池」にある「海石塔」と「翠滝」付近




















噴水付近




















「桜が岡口」付近に咲いていた「ことじ椿」

2016年1月27日水曜日

2016年冬 東山(2) 福光屋 高木麹商店

2016年冬 東山(1)の続きで、「十月亭」で食事した後、外へ出てみると茶屋街のメインストリートは相変わらず人通りは少なかった。




















このメインストリートの中ほどに、以前はなく最近できたと思う店の酒の「福光屋」に入った。




















店内には、「福光屋」の純米酒「加賀鳶」をはじめ「鏡花」や昔からなじみのある「福正宗」など多くの銘柄のお酒が並んでいた。また、昔テレビなどのコマーシャルで見た「福ちゃん」が描かれたハンカチなどのグッズや食品、器などもあった。
ここのカウンターバーでは「福光屋」のお酒と酒肴やスイーツなどが頂けるという。




















ここで、酒造直営店ならではの「本日のしぼりたて」の試飲コーナーがあり、店員に薦められ飲んだら非常に口当たりがよく旨かったので、一本買った。
「しぼりたて」は生まれたての新酒のフレッシュさを損わぬよう火入れ(加熱殺菌)しないまま届けるお酒のことで、この寒いシーズンしか飲めないという。




















続いて、茶屋街から外れてすぐの所にある、創業して180年という「高木麹商店」に行った。




















ここの建物は藩政末期の典型的な町屋で「金沢市指定保存建築物」となっている。間口が広い大店で、1階には蔀戸が備えられ、2階は防火のために漆喰が塗りられている。背の低い2階で腕木により軒が出、両側に袖壁が付いている。




















中に入ると店の間には、昔、見たことがあるような古めかしい茶箪笥や障子戸、そして前のテーブルは仕事の真っ最中のようで乱雑になっていた。ぶら下がっている暖簾なども年期が入ったものだった。




















麹をを蒸すためのレンガ造りの炉や釜が置かれていた。




















レンガ造りの煙突が屋根の上まで延びている。傍らには麹を入れる箱が積まれていた。そして、玄関戸の梁の上に、店の護り神であろうか小さな像が飾られていた。




















また、ここの天井は相当高い吹き抜けになっており、太い梁が何本も走っていた。ここは2階の屋根の上に突き出た「天窓」まで延びている。窓は「明かりとり」や「換気」をするようになっている。




















そして、昔ながらの伝統的な製法で作られる麹からできる「味噌」と「かぶら寿司」をいつも食べているものとどう違うか賞味したいと思って買った。




















脂がのった寒ブリを白い蕪で挟んだ、表面に麹が付いている「かぶら寿司」は酒のつまみにも合い、私も好んで食べる。




















帰りに寄った東山茶屋街のメインストリートの両側にある、やはり風情のある細い通り








































浅野川の「梅の橋」から「大橋」方向を見る。右側の河原にはまだ少し雪が残っている。




















「梅の橋」から「天神橋」方向を見る。川の水は冷たそうだ。昔はこの時期にこの辺で「友禅流し」がよく見れたという。現在でもたまにやるらしい。

2016年1月23日土曜日

2016年冬 東山(1) 十月亭

今回は、ようやく寒波襲来ということで、金沢の観光スポットのひとつの東山へ様子を見に行った。
しかし、昨日は6cm、今日は2cmの積雪ということであったが、茶屋街の通りにはもう既に解けていて、全く雪がなかった。(1月21日)
平日の昼間でもあり、寒波が来ているということもあってか、人通りが少なかった。




















観光客になったつもりで、ランチを食べるために、茶屋街のメインストリートの奥の方の左手にある、前から入りたいと思っていた和食の店「十月亭」に入った。ここは江戸後期、160年前のお茶屋の建物を改造した店だ。




















玄関に入ると、靴をレトロな下駄箱に入れ、畳敷きの玄関の間からお食事の部屋に案内された。この玄関の間には、灯りに照らされた「加賀友禅の着物」が飾られていて趣があった。




















大きな木で作られたテーブルのカウンター席に座ると、掘りごたつ式になっていて足が気持よく温かかった。




















カウンターの前の障子戸は、ちょっと庭を見たい時に下の障子だけが上げられるように工夫がなされていた。




















大きく戸を開けてもらい、風情が感じられる坪庭を見せてもらった。雪吊がなされた木々が植えられていた。あまりに寒い風が入ってきたのですぐに閉めてもらった。建物の裏にももうひとつ庭があるという。




















そして、ランチのメニューは「武士の献立御膳」と「竹かご弁当」の二つがあったので、家内と別々に頼んだ。
料理人として加賀藩に仕えた武士が残したとされる献立にちなんだ「武士の献立御膳」には、加賀料理の定番の「冶部煮」や「鯛の唐蒸」、「寒ブリの刺身」、「ごまどうふ」、「ごぼう、しいたけなどの入った汁物」などの料理が入っていた。




















「竹かご弁当」は、海老、ばい貝、肉、ぶり、玉子焼き、なす、さつまいも、生麩など加賀野菜などをふんだんに使用した具材が入ったものと、ぶりの入った酢の物やごまどうふの料理などが付いていた。
どれも味わいながらおいしく頂いた。




















その後、デザートとして「黒蜜のアイスクリーム」を頂いた。




















食事が終わった後、マネージャーから2階の部屋を見せていただいた。階段はお茶屋さん特有のお客さんと芸妓さんが一緒に下りてこれる広い階段で、それを上ると、通り側に広い部屋があり、床の間が備えられていたので、お客さんが座る座敷であろう。そして向かい側に「控えの間」であろうか芸妓さんが踊りを披露する場所は、他の茶屋よりも広そうだった。現在は、ここでも食事が出来るようにテーブルと椅子が並べられていた。








































表の縁側に出ると、窓から情緒がある眺めの茶屋街の建物が見える。


2016年1月19日火曜日

此花町、笠市町付近(3) 旧象眼町 笠市通り

此花町、笠市町付近(2)の続きで、三つ目の道は「旧象眼町」の標柱が建っている。「藩政時代、地子町のひとつで、象嵌師が住んでいたことからその名が付いた。『ずがねまち』とも『ぞうがんまち』ともいった」と記されていた。この道の両側にも古い家が並んでいた。














































この道の中ほどに用水が流れていた。この用水は現在は「高岡町排水路」となっているが、藩政期の地図にも載っていて、西外惣構堀からの分水で「堀川町」方面に流れ、浅野川に注いでいた。




















さらに別院通りの端まで行くと横安江町商店街(金沢表参道)の裏にたどり着くが、そこは数本の道が分かれている。




















ここから右方面の道を歩くとすぐに割烹「山さん」笠市店があったが、近江町市場の「市姫口」にある本店は、早朝から長い行列ができるほど人気の店だが、ここはひっそりしていた。




















少し歩くと右側に、珍しく間口が広い町屋の「室谷製麺」という店があった。ここのウィンドーに袋に入った蕎麦とともに九谷焼の獅子が並べられていた。袖壁、腕木があり、1階の屋根と古格子の間にきれいな細かい模様が入っていた。「室谷」の表札もすばらしかった。




















ここから真っ直ぐ歩くと、道の突き当たりに「笠市通り」に出るが、すぐ前に「網善商店」という魚網を売っている店がある。昔はこの辺りに多くの魚網を売っている店があったが、「今は内だけが残っている」とここの奥さんらしい人が出てきて言っていた。藩政期に舟から荷を降ろす「堀川揚場」がすぐ近くにあり、浅野川から海に出る魚船が通っていたので、ここに魚網を売る店が多くあったという。「内は明治の初めからこの商売をやっていて、中の部屋には昔のままのものがたくさん残っているが、現在も普通に住んでいるので見せることはできない」と言っていた。




















この店の斜め向かいの角に、今は既にやっていないようであるが「天狗牛肉」の看板が掛かった中田笠市店の古めかしい建物があった。ここはその以前は銀行であったと「網善商店」の人が言っていた。そういえば2階の黒っぽい建物の外観からそのようにも思える。




















この通りを小橋方向に歩くと、郵便局の向かいにやはり大きな町屋の建物の「紙谷魚網店」の看板が掲げられている。ここは現在も店はやっているのかよくわからなかった。建物は袖壁はないが、大小二つの腕木により2階屋根の軒下が長く出ている。1階の屋根は2重庇になっており、そして2階の高さも結構ある。大正時代に造られた町屋であろうか?




















この通りは藩政期の古地図にも載っているが、浅野川沿いの道と合流し、「小橋」辺りまで続いる。昭和30年代ごろには、もっと多く店が開いていたように記憶しているが、まだまだ町屋が残っているのでは。

2016年1月15日金曜日

此花町、笠市町付近(2) 旧荒町 旧鍛冶町

此花町、笠市町付近(1)の続きで、「別院通り」と垂直に交わる3本の道筋あるが、この道は藩政期の古地図にも載っている古くからある道である。
一つ目の道には「旧荒町」の標柱があったが、「寛永年間には木の新保新町と呼ばれ新しくできたので、この名が付いたといわれる。元禄の頃には荒町となっているが、荒町は新町の意であろう」と記されていた。


























この道を少し歩くと「光専寺」というお寺があった。真宗大谷派の寺で、木越山と号し、俗に米出光泉寺といわれる。1650(慶安3)年祐尊の時に、今の地に移り、初めは祐尊の隠居所であったという。前の土塀には簾のようなものが掛けられていたが、長町武家屋敷の「薦がけ」と同じように雪の水分が凍って土塀を痛めることから守るためにやっているのだろう。




















二つ目の道には「旧鍛冶町」の標柱があり「三代藩主前田利常から刀鍛冶などで宅地を給わった者が住んでいたことから、はじめ安江鍛治町と称されていたが、後に鍛治町と呼ばれるようになった」とあった。


























この標柱の後ろには「乗善寺」という寺があるが、真宗大谷派の寺院で、はじめ新町にあったが、後に現在地に移ったという。ここは珍しく山門と鐘楼がくっ付いていた。




















その向かい辺りに二つ並んで建っていた町屋には、袖壁、腕木などが付いていた。




















またその先に、きれいに紅殻色に塗られ、「町屋」のプレートが貼ってあった建物があり、やはり袖壁、腕木が付いていた。そして、1階、2階ともきれいな古格子があった。わりと最近に改修されたのであろう。屋根には煙突があった。




















また、その先の向かい側にも同じ様に改修された町屋があった。ここは、やはり「金澤町屋」のプレートが貼られていた。そして玄関の脇に「金澤町屋 旧深田家」についての説明書きがあった。




















これによると、「旧深田家は母屋・トオリニワ・土蔵からなり、母屋は1918(大正7)年に、トオリニワと土蔵は1904(明治41)年に、当時材木商を営んでいた石野新太郎が建てたものである。1933(昭和8)年に金澤漆器の木地師であった当時の深田家が購入し、弟子数人とともにミセノマにて生業を営んでいた。現在は深澤家の子孫がこの家を受け継いでいる。
母屋が建てられた大正時代は低町屋から高町屋に移行する中間期で、深田家はちょうど中間の軒高である。腕木構造に袖壁、古格子調の2階窓などは、明治期の町屋の特徴がよく見られる。1階正面の出格子は、後に付けられたもので、当初は向かって右から3間目に玄関大戸が入っていた。屋根は4.5寸勾配で、当初から瓦葺きであった。母屋はの間口は4間、奥行きが6間半であり、表からミセノマ、オエ(チャノマ)、ザシキ(ブツノマ)が連なり、土塀を介して中庭へと続く、典型的な1列多段型の間取りといえる.オエは吹き抜けとなっており、上部には「サシモン」と呼ばれる梁組みが力強く交差している。2階は表からマエニカイ、ナカノマ、オクザシキと続いている。
2012(平成24)年に大規模な再生工事を実施し、構造補強、瓦の葺き替え、設備機器の刷新などをおこなった。トオリニワの一部と土蔵は残念ながら取り壊してしまったが、母屋は建築当初の
面影を再現するために正面をベンガラで塗り、外壁も下見板張りでやり替えられた。玄関前の踏み石と縁石は、土蔵入口の階段石にもちいられた赤戸室石を加工して据えられたものである。材木商が建てたものだけあって、随所に珍しい木材や上質の材料が見受けられ受け継いで生きたい建物である。」
そして建物の1階、2階の平面図が描かれていた。これだけ詳細に説明してあるので、よく理解できた。


























また少し歩くと、駐車場の真ん中に大きな「地蔵尊」があった。これはいつごろから建っていて、どういう謂われがあるのであろうか?




















この通りには「町屋」がたくさん残っている。




















そしてその奥には「金沢5社の一つの「安江八幡宮」があるが、ここは以前入ったことがあり、このブログでも紹介している。
http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html