加賀橋立(1)北前資料館の続きで、「北前船の里資料館」になっている「酒谷家屋敷
」は1000坪もある広大な敷地で周りは高い塀で覆われ、広い庭には2000本のガクアジサイが6月中旬~7月上旬ごろにみごとに咲くという。
屋敷から廊下を通して2階建ての蔵があったが、ここには8棟の土蔵があるという。
庭に置かれている石は北前船で運んだもので、全国の銘石を配している。
「函館山」の絵図が描かれた掛け軸があったが、橋立の大船主である「西田家」は、明治になって北前船の衰退を察し、函館にて北洋漁業に転身したという。今を時めく観光地のなっている「函館山」の所有者であったと聞いたが?
ここ加賀市には「九谷焼」の発祥の地であるが、九谷焼のすばらしい「色絵金彩」の平鉢や「赤絵」の急須など展示されていた。
橋立の北前船主邸では大小二つの仏壇が置かれいる。主人が船の商売で留守の間は、小さい夏仏壇を使用し、主人が戻ると冬になると大きい仏壇を使用すると言われている。酒谷家の仏壇は三国仏壇で加賀市の指定文化財になっている。
「北前船の遺産」より
大正5年の全国雑誌「生活」に橋立のことが、北前船で巨額の富を築いた「日本一の富豪村」と紹介された。このことから「西田家」が「函館山」を買い取ったことや「小樽のレンガ倉庫群」をつくったなどということもありうる話だと思う。
北前船の「積荷と利益」が下図に乗っているが、文久2年の酒谷家幸貴丸では、1航海で約2000両以上だから、今のお金に換算すると約2億円の稼ぎになるという。
船乗りの1年を見ると3月の春祭りの後に徒歩で大阪に出向く。船の修理をした後4月ごろに大阪を出航する。瀬戸内地方で塩、紙、たばこ、砂糖などを積み込む。日本海に回って境野哲也小浜の縄筵などを買い、橋立に上陸して家族と別れを惜しんだ後に、日本海側を北上し貞、酒田、深浦などを経て、江差、松前、小樽などに着く。各地で荷物を問屋で売り払い、鰊、〆粕、数の子、昆布などを買いこむ。9月上旬までに瀬戸内海に入れるように出発し、瀬戸内海各地で売り周り大阪に着くのは晩秋になる。大阪からまた徒歩で橋立まで帰る。そして次の出発まで約3か月間は、家族と過ごしたり、加賀の温泉三昧の生活だったという。
「北前資料館」の隣で、食事をとり一服した。付近の道には人影がほとんどなかったが、この店の中だけは人でいっぱいだった。