2017年12月31日日曜日

浅野川大橋のライトアップ

今回は、年末(12月29日)に内のものから、お正月用のお菓子として「森八の福梅」を買ってきてほしいと言われたので、ついでに近くにある浅野川の大橋のライトアップが、最近新しく変わったと聞いていたので、見に行った。
2週間ほど前に、ここで食事をしに来たが、また行くことのなった。午後5時くらいには暗くなっているので、それに合わせて森八に行った。



















店内に入ると女性店員が数人にいて、お菓子をいろいろ見て回ると、ずっとひとりの店員が付いてきて、何となくじっくり見れなかった。



















言われていた「福梅」をとりあえず注文した。金沢では、お正月のお菓子と言えば「福梅」が最もポピュラーである。前田家の家紋「剣梅鉢」をあしらった梅の花の形をしたもので、10代藩主重教の時代に、新春の茶席に献上されたのが始まりと言われている。紅白の「福梅」は縁起が良いといわれる。



















そして、たまには食べたいと思い迎春用「上生菓子」を2種類1個づつ買った。



















その後、すぐに浅野川大橋に向かった。まだ、そんなに暗くなっていなかったが、既にライトは灯っていた。大橋の上から向かい側の「梅の橋」方向を見る。



















 東山方向の河畔から大橋を見る。



















年末年始の休みに入ったので、東山側の「橋場町」のバス停の前は、時間帯からして夕食かホテルへ帰るのか、観光客でいっぱいだ。



















割と最近だと思うが、有名になった「解けないアイスクリーム」と「金箔入りのぜんざい」の店があった。金沢大学の先生が開発してできた という「解けないアイスクリーム」とは、どんな味でどんな舌ざわりなのか、ちょっと食べてみたいものだ。



















いつも人でいっぱいの「ひがし茶屋街」のメインストリートは、もう夕暮れ時になってきたので、人は少なくなっていた。



















「中の橋」から、主計町茶屋街と大橋方向を見る。




















「中の橋」からさらに下流方向から、ライトアップされた4つの橋を見たかったが、もっと高いところから撮らないと4つは見えない。



















新しく変わったライトアップにより、川面に橋がきれいに映っており、より幻想的に見えるようになった「中の橋」
橋のたもとと桁隠しの部分にLED照明が設置された。



















主計町茶屋街から見る浅野川大橋。以前より川面に映るライトが明るく見える。



















大正11年に造られた「浅野川大橋」も新たにライトの照らし方が変わり、アーチ部分をより明るく照らすために橋のたもとに多くのLDEが設置された。

2017年12月29日金曜日

東北地方北部ドライブ(18)弘前城②

東北地方北部ドライブ(17)弘前城①の続きで、その後、城内の「弘前城植物園」に入った。園内には1500種、124000本の樹木や草本が植えられいる。世界各地の高山植物を集めたロックガーデン、季節の移り変わりを感じ取れる花ごよみの小径など、四季を通じて草花が楽しめるという。



















草花によって五重塔、山(岩木山か?)、弘前城などをかたどったものが置かれていた。

















































ここから近い、世界遺産に登録されている人を寄せ付けないという「白神山地」に生えている樹木の中を間近に体験できるコーナーもある。




















その後、弘前城を出て、近くの弘前私立物産館付近に行った。ここには今でも明治から大正期に建てられた洋館が数多く残っていて、その14棟を1/10サイズのミニチュア建造物群が再現されていた。



















堀江佐吉らによって1906(明治39)年に建てられたという八角形双搭のルネッサンス風の外観の「旧弘前市立図書館」




















県内初の私立学校として創立された「旧奥義塾外人教師館」で、その学校に英語教師として招かれた外国人の住居として使われた。現在は1階がカフェとして使われたいた。



















「青森銀行記念館」は旧第五十九銀行本店で、やはり堀江佐吉らによって1904(明治37)年に建てられたという。展望台を兼ね備えた装飾搭もあり、国指定の重要文化財である。



















内装は天井一面に貼られた金唐和紙(きんからわし)は明治から昭和初期にかけて盛んにつくられた日本伝統工芸品であるという。

















































土産物店の中に「弘前ねぶた祭」の大きくて鮮やかな山車が置かれていた。
























弘前から今日泊まる日本海沿いの深浦町にあるペンションに行く途中に、雄大な岩木山の横に夕焼けが見えた。



















さらに進むと、道路の両側にリンゴ畑がずらりとあるところがあり、多くのおいしそうなリンゴがなっていた。そこで叔母さんがリンゴを採っている最中だったので、話しかけて採りたてのリンゴを少し売ってもらった。

2017年12月26日火曜日

東北地方北部ドライブ(17)弘前城①

東北地方北部ドライブ(16)の続きで、その後、予定時間より遅れたので、途中「太宰治記念館」にも寄らなく、前から行きたいと思っていた弘前城に着いたのは、3時近くになってしまった。
弘前城は津軽藩の居城として、2代藩主信枚によって1611(天正11)年に築かれた。当時は5層の天守を備えていたが、その後、落雷によって焼失した、現在の3層の天守は1810(文化7)年い再建され、廃藩にいたるまでの260年間は、津軽藩の中心地であったという。下の写真の追手門は、大雪でも埋もれないように初層の屋根が高くつくられている。



















二の丸南内門は、築城当時のものといわれていて、北門や東門、追手門など5門は重要文化財になっているという。



















弘前城は何といっても桜が有名で、桜の季節には大勢の人で賑わうところである。ここには、約50種、2600本の桜が植えられているという。1725(正徳5)年に弘前藩士が25本の桜の苗木を植えたのが始まりという。現在ではリンゴの剪定技術を応用して、木の成長を促す手法がとられているという。
下図は「二の丸の大枝垂れ」で、桜が咲いた時期の写真が付いていたが、実際見ると見事なものであろう。



















朱色の「下乗橋」から見る堀と石垣。向こうの石垣の上に天守があるはずだが、2015年から城の曳家工事により、現在天守はここにはない。
この橋は、江戸時代に下馬札が置かれ、藩主以外は馬から降りて渡ったためその名が付いたという。



















移動した天守の横で、訪れた人がリンゴを置いて「写楽の浮世絵」を描く「リンゴアート」というイベントをやっていた。リンゴを使うということが弘前らしいところだ。



















100年ぶりの石垣修理のため、天守は本丸の内側に70m移動しているが、江戸時代に建てられた12の天守のひとつである。幕末近くに建て替えたときに徳川家に遠慮して、金沢城と同じく「三階櫓」にしており、さらに現在は石垣が下にないので、なんとなくこじんまり見える。



















天守内には弘前城のジオラマが展示されていたが、天守以外に多くの建物があったのだ。



















天守の最上階から見える「岩木山」は雄大である。
























江戸時代の初期のもであろうか、石垣の形状や積み方は金沢城の石垣とは違う。石垣の上にはたぶん建物があり、階段を上ってくる敵を攻める狭間などがあったのであろう?



















重たい石垣を移動させたり、吊るし上げたりする道具「神楽桟」という道具が展示されていた。ロープの端に石垣を結び、柄を押して軸を回しロープを巻いて移動させるものを展示されていた。石垣の多きな石を曳くのは絵図などでよく見て知っているが、積み上げるのは、どうやってやったのか私もよく理解していなく、不思議でならない。
























堀と道に沿って、今は緑の葉である桜並木があったが、桜の満開のころはさぞきれいだろう。他の多くの都市や東京は3月末から4月上旬に満開になるが、ここは4月下旬からゴールデンウイークなので人でいっぱいになる。

2017年12月23日土曜日

東北地方北部ドライブ(16)竜飛岬

東北地方北部ドライブ(15)の続きで、次の日(10月14日)青森市のホテルから、津軽半島の先端の竜飛岬に行った。途中陸奥湾の向こうに下北半島も見えた。
1時間半以上走った後、ようやく竜飛岬に着いた。津軽海峡の向こうに北海道の山並みが見えた。割と近い感じがした。



















竜飛岬の灯台が見えなかったので、近くの 観光案内所の人に聞いたら、ここの高台の上あるという。観光案内所の目の前のあった銅像は、牧野逸蔵氏で旧三厩村の村長や漁業協同組合の組合長を歴任された郷土の偉人だそうだ。
この 観光案内所の建物は、明治35年創業の「旧奥谷旅館」の老舗旅館だったそうで、太宰治など有名な人が多く泊まっているという。



















急な坂道を上ると広々とした平地があり、道の駅など店もあった。、海抜100mくらいの高台にあるので、この灯台は遠くからも見えるだろう。
この横に下に降りる階段があるが、「階段国道」といって日本で唯一の階段国道であるという。


































周りを歩くと、海が見える絶壁の丘の上に、大町桂月や吉田松陰の詩碑など四つの石碑が建っていた。



















ここに「石川さゆり」の詩で最も有名な「津軽海峡冬景色」の歌碑が立っていた。ボタンを押すと、2番の歌詞「あれが竜飛岬 北のはずれと・・」の曲が流れるという。



















竜飛岬は昔から景勝地と知られ、幕末には吉田松陰そして昭和に入っても太宰治など文人墨客が多く訪れているという。石碑の渦巻きのマークは大きな波を表しているのだろうか?



















坂を下りると「青函トンネル記念館」があり見たかったが、次の予定のためやめた。
その後、「十三湖」の近くの道の駅で昼食を食べ、「弘前」に向かった。

2017年12月20日水曜日

森八菓子本店 主計町「貴船」の弁当

今回は、大手町にある菓子屋「森八本店」で、金沢で超人気の主計町「貴船」の特性弁当を仲間と一緒に食べに行った。
森八は、菓子作りを始めて390年という老舗で、金沢の中でも最も有名な菓子店のひとつで、「ひがし茶屋街」にはいくつかの店を出している。
3代森下八左衛門が、藩主利常の創意により、小堀遠州の筆による「長生殿」の文字が浮き彫りになっている菓子を出した。
11代八左衛門の時に家柄町人地して「苗字帯刀」を許され「森下屋」から「森八」に改めたという。江戸時代から尾張町にあったが、近年大手町の方に移った。



















今日は、その建物の2階で「貴船」の弁当が頂けるということで、わくわくして入った。
2階の部屋からは、有名な武家の「寺島蔵人」邸の庭園が、目の前に見える場所である。
ここの庭園は、「ドウダンツツジ」で有名であるが、今は「雪吊」された木々のほかに、薦で包まれた灯篭など冬の風情があった。きれいな庭園を見ながら、おいしい食事ができる最高の場所である。


































3段に入ったケースから、料理が入ったお重が取り出され並べられた。
前菜には「ぶりの照り焼き」、「伝燈寺芋のくるみ田楽」、「梅貝」、「干柿チーズ」、「鴨ロース」など、お造りには「ぶり」と「甘エビ」そして小鉢に「揚げクワイ」、「タラの昆布ジメ」、「このわたなまこ」などがあった。普段食べられない北陸の高級食材が使われ、見た目も豪華そのものだった。


































さらに、「カニ御飯」と「カニ真丈と三つ葉しいたけ」のお吸い物
そして、最後にデザートとして「あんみつ」と抹茶が出てきた。どれもおいしく頂いた。



















周りを見ると、カウンター席の前に九谷焼の器が並べられている。

向かい側には「楽庵」という茶室とその向こうに小さな庭が見える。



















江戸から明治、大正、昭和、平成時代の「森八のあゆみ」について描かれていた。
江戸時代には、「金花糖」、「にらみ鯛」、「大鰤」などを金沢城に献上している。
また、明治天皇の石川県行幸の際、あるいは昭和天皇の「御大礼」の際に「長生殿」などを献上している。また、明治には「森下八左衛門」が金沢電気会社を設立していることなどが記されていた。



















その奥には「金沢菓子木型美術館」として、江戸時代から使われてきた菓子木型など数千点が展示されている。以前にここで木型を見たことがあるが、非常に精巧に彫られた木型は、必見の価値がある。



















おいしいものを食べ大満足した後、近江町の「いちば館」で、金沢城調査研究所の所長木越隆三さんの「加賀藩の改作奉行と改作法」についての講座を聞いた。



















この「改作法」によって、加賀藩のお米は安定的に入るようになり、財政が強化され「政治は一に加賀、二に土佐」と称されるようになった。
3代藩主利常が作った「改作法」について、3代利常のころと12代藩主斉広の150年の間にそのやり方が随分変わってきたことなどを詳細に説明してくれた。