2020年6月29日月曜日

小立野界隈(3)下馬地蔵 善徳寺 旧土取場

小立野界隈(2)の続きで、石引1丁目交差点の角に「専修寺」というお寺がある。1715(正徳5)年に開基慶円によって能登の国羽咋郡米出村に専修坊と号し、一寺を建立したのが起こりである。1879(明治12)年に当地に移転した時に「専修寺」と名付けられたという。



















交差点の向かい側には「下馬地蔵尊」がある。1591(文禄元)年頃、金沢城建設のためにはじまる戸室山からの石曳きの安全を祈願して住民により建立されたと伝えられている。1623(元和9)年に天徳院建立以降、地蔵堂の所を「下馬」と称し、馬での参拝者はここで降りなければならなかった。それで藩老藩士のための下馬腰掛所があったという。この地蔵尊の周りが広いので、我々のメンバーでのこの辺りの町巡りをする場合の集合場所としてよく使う。
























正面中央に地蔵立像を半肉彫りとなっている。上の方には龍が彫られている。



















石引1丁目交差点から、兼六園方向に1本入った小路に「千取寿司」という以前から高級寿司で有名な寿司屋がある。私はまだ入ったことないが、水、魚、米など金沢の自然の恩恵を生かして美味しさを守り続けているという店である。




















この小路をさらに奥に進むと真宗大谷派の「善徳寺」というお寺がある。山門は黒の瓦屋根、鐘楼は緑青の銅板屋根そして本堂は赤茶色の瓦屋根である。



















山門には「善徳寺」と描かれた立派な額が掲げられ、扉には金色の「梅鉢紋」が光っている。



















1650(慶安3)年、越中の城端善徳寺の6代顕勝が金沢材木町に掛所を建立したのが始まりで、1658(万治元)年に3代利常より現在地を賜わり移転した。1879(明治12)年に善徳寺支院と改称し、1994(平成6)年に本院から独立して真宗大谷派善徳寺となったという。



















本堂はたいへん大きくて赤茶色の屋根が美しい。




























本堂の前にこの地区の子供会の太鼓行列用の台(?)が置かれていた。
























面白い龍の口から水が出てくる手水鉢と丸い大きな笠を持った雪見灯篭、それに白い花が咲いていた。



















境内脇には以前使われていた立派な鬼瓦とその由来が描かれていた。
























この辺りは、藩政期には「土取場」と言われた。高山右近が城を改造した時に、小立野の土を盛って土塁にしたというのが定説になっているが、他に犀川の川除普請のとき洪水を防ぐために小立野の山土を運んで盛り上げたという説もあるという。



















すぐ近くの金大附属病院の敷地前に「旧土取場」の標柱があった。「藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった」とあった。

2020年6月24日水曜日

小立野界隈(2)小立野小学校 金沢商業高校 鶴間坂

小立野界隈(1)の続きで、その後「天徳院」の裏に当たる「小立野小学校」を通った。この付近は閑静な新しい住居が多い中で、ちょっと古風な家があった。「池坊 いけばな」を教えている所のようだ。



















「小立野小学校」は、1871年に「飛梅小学所」として開設されて、百々女小学校などを経て、戦後1947年に金沢市立石引小学校として改称され、1959年に石引・崎浦小を合併して「小立野小学校」が創立された。いくつかの建物があり、2階建てで手前のは「中高年棟」と「交流棟」で裏に広い運動場がある。私が通っていた昔の木造の小学校の校舎とは比べものにならないくらい立派である。



















「金沢商業高校」は、1900年に「金沢市立商業学校」として開校した。昭和2年の彦三の大火によって燃えてしまい、彦三5番丁にあったのを現在地に移ったという。戦後1948年に「石川県立菫台高等学校」に改称され、1959年に「金沢商業高校」となった。甲子園にも2度出場しているし、バレーボールなどが強いという印象がある。


明治37年ころの金沢商業高校(この校舎は彦三?)

校庭に「海の百万石」と謳われた、巨大な富を築いた加賀藩の豪商「銭谷五兵衛」の銅像があった。地元の商業系の英雄であるからであろうか?
























他に、「友情の碑」と「金沢菫台高等学校記念の碑」が立っていた。「菫台高校」は、太平洋戦争後の学制改革にともない、総合制、男女共学、小学区制の高校として、1949年にこのに誕生した学校である。当初は普通、商業、家庭の参加からなっていたが、実業高校独立の社会的要請を受けて、数年で現在の商業高校になった。以前いた会社の先輩の中に、1,2年は「菫台」だったが、3年は「泉丘」という人もいた。

































「金沢商業高校」の校舎の裏側の道沿いに、つつじや木々に隠れて、わずかな隙間から洒落た洋風建築らしき建物が見えた。
























その先を歩いていくと、長い坂に出る。ここが「鶴間坂」である。金沢の有名な坂はほとんど行っているが、この坂は初めてである。
























この坂は7,8度なので、「思索に耽る坂」としてはちょうどよい傾斜度で、これ以上になると息切れしてしまう。金沢の「サカオロジー」を描いた筆者はとそう呼んでいる。長い坂なので途中に一服できるベンチが備えられている。



















つづら折りに曲がると、片側は竹やぶや木々に覆われている。



















坂の途中に祀られている観音菩薩や地蔵さんの前には「鶴間坂」の標柱がある。「坂の上からの眺望がよく、加賀藩時代から詩歌を好む人が訪れ、ここを鶴舞谷と称していたのでこの名がついた」とあった。



















下の方は、両側に木々が茂り、昼間でも暗そうだ。
























杉の木の間を見ると、下の方に街並みが見えるが、昔は風光明媚で、古くから詩歌連句に謳われていた。その谷を鶴が舞っていったので「鶴舞谷」と呼ばれ、その谷を下りる牛坂を「鶴舞坂」と呼んだのが何時の間に「鶴間坂」となったという。



















この坂の途中に入母屋風屋根がいくつかある古風な家があったが、この長い坂の途中にどんな思いで家を建てたのか気になるところだ。

2020年6月19日金曜日

三公園のアジサイ(犀川緑地公園、大乗寺公園、卯辰山花菖蒲園)


今回は、春の桜に匹敵する梅雨を彩る花「アジサイ」を,最近散歩などで行った三つの公園に咲いていたので紹介する。
まず本日(6月18日)は、「犀川緑地公園」に散歩に出かけた。犀川河川敷にはコロナで自粛していたのが解放になったのか、多くの人が久しぶりにグランドゴルフを楽しんでいた。




















児童会館前から大桑橋までの公園内にアジサイがあちこちで咲いていた。



















  ホンアジサイのすぐ近くにガクアジサイ



















薄い青色の装飾花に濃い青色の両性花




















白色の装飾花に青と黄色の両性花がきれいである。











次は大乗寺丘陵公園は昨日(6月17日)に行ったときに撮ったものである。ここの「アジサイ園」には多くのアジサイが咲いており、昨年もこのブログで紹介している。



















淡いピンクのホンアジサイ



















ここの公園のアジサイはきちんと名前が描かれているので分かりやすい。下図は「ガクアジサイ系 渥美しぼり」と描かれている。



















赤味を帯びた色鮮やかなアジサイもある。



















とんがり帽子状の面白い形状の白いアジサイもあった。



















そしてその前日(6月16日)は卯辰山の「花菖蒲園」に行ったので、ここにも花がたくさん咲いていた。ここの花菖蒲は3,4日前が一番見ごたえあったと思われ、少し萎れていたのもあった。


































アジサイはちょうど見ごろで、大きく花が開いていた。



















ここのアジサイは、華やかに開いているので「西洋アジサイ」か?アジサイは日本が原産だが、日本アジサイはつつましやかで、逆輸入されてから花木として親しまれるようになったという。


















2020年6月14日日曜日

小立野界隈(1)上野八幡神社

今回は、小立野界隈を歩くということで、まず「天徳院」の奥にある「上野八幡神社」へ行った。
この社地は、御塚をいわれ古来より村民の尊崇厚き貴婦人の古墳林の一部であったという。この御塚は約1300坪あり、杉や松の密林で、何人も寄せ付けなかったといわれるている。中央部分には高さ6間、広さ300坪の大きな古墳があり、大古墳を守るようにして小さな古墳が56基あったと伝えられている。明治時代以後に中心部の松の木以外の樹木は伐採され、近年松の木も伐採され地ならしし、金沢大学工学部が建てられたという。



















上野八幡神社は1583(天正11)年頃、前田利家公に内通していた石動山天平寺の僧空山が自家伝来の八幡大神を石動山の麓に祀ったのが始まりとされ、前田利家公金沢城入城後、1593(文禄2)年に金沢山崎郷白山町(現在の福光屋酒造付近)に移転し、1731(享保16)年に現在地に遷座したと伝えられている。




















上野八幡神社の秋祭りには、餅つき踊りが奉納される。収穫の秋に実りの感謝を表すもので、氏子らが踊りながら餅の曲づきをする。餅つき踊りは天正11年に藩祖前田利家が七尾城から金沢城に移られた折に、住人たちが餅をついて献上し、お祝いの意味で曲づきをしたのが始まりだという。その後、音曲を入れておもしろくしたといわれ、これを町内(旧上野町、現在の小立野3丁目)の秘技とし、長男のみに口伝で伝承されている。


また、由来については不明であるが、33年ごとにお神輿が氏子中を練り歩き、その際には餅つきの踊りの他に、獅子舞や太鼓行列も加わって盛大に執り行われる。



















拝殿前の両側に赤戸室の灯篭と狛犬が置かれている。



















屋根が立派な「手水鉢」



















境内には「山さむし心の底や水の月」と刻まれた芭蕉の句碑がある。この句碑は1875(明治8)年に宝憧寺にあったものを移したもので、松尾芭蕉が「奥の細道」で金沢に来た時、宝憧寺に立ち寄り、月光に照らされた医王山を眺めて詠んだのはこの句と言われている。かって宝憧寺は上野八幡神社近くにあり、歴代藩主の吉凶を占うなど隆盛を極めたがを極めたが、明治8年に衰退し百姓町に移った。今はわずかな墓だけを残すのみとなっている。



















ここの境内には大きな杉の木が何本もあり、この辺りだけが森の中にあるようだ。
























神社の前の鳥居の横の目立つところにこの近くの酒屋「福光屋」や「福光松太郎」の名前が刻まれていたが、多大な寄進をしているのだろう。



















「上野八幡神社」の隣の「すみれ児童公園」からは、「旧金沢大学工学部」の跡地に「石川県立図書館」の建物を建てる予定になっているが、現在はその敷地に大きな建設機械が入って造成中である。



















久しぶりに工学部跡に行ったが、昔の面影は全くなかった。ここは1920年に設立された「金沢高等工業専門学校」があり、戦後の1949年に金沢大学工学部となったが、今は「角間」に移っている。