2021年9月28日火曜日

能美市巡り(5)七つ滝②

 能美市巡り(4)七つ滝①の続きで、さらに七つ滝について紹介する。

一番上ある滝は「一の滝」で、ここは「大ウナギ」いるという言い伝えがある。




















「能美市ふるさとミュージアム」の説明版に「七つ滝の大ウナギ」のことが描かれている。


















「一の滝」の近くに「説明板」があったが、汚れていてよく読めなかったが、「能美市ふるさとミュージアム」にその内容がきれいに描かれていた。
江戸時代の金沢市の郷土史家小倉有年は、1855(安政2)年に鶴来村から岩本村の渡しを越え、灯台笹村を通り、案内人を頼んで長滝村の現在地の様子を詳細に描いた後、瀧浪神社を参拝し寺井村に宿泊したと記している。



















小倉有年がここで読んだという句「まだ知らぬ 人に見せばや 神代より たえぬ流の この滝つ瀬を」(まだ知らない人に見せてあげたい。神話からの時代から流れの絶えないこの滝を)が描かれていた。これは、小倉有年の友人である郷土史家森田柿園が編纂した「加賀志徴」に掲載されているという。



















曲がりくねった木

































「さいのかわら」と「炭窯」への方向表示版があった。「さいのかわら」には地蔵さん立っているらしい。また、「炭窯」方向には、中世にあったという「瀧浪寺跡」がある。そこまで上がる元気がなかった。





































「六の滝」からさらに下ると、「七の滝」付近に「瀧浪社」という神社があった。創建の時期は分からないが、古代の人々が七段の岩を流れる清流七つ滝として崇め祀った神社だという。
明治22年に山の中腹から上方の現在地に社殿が移された。その際に平安時代から鎌倉時代初頭のものとみられる鏡8点とそれを納めていた珠洲焼の壺や加賀焼きの片口鉢、鉄刃が出土され、古来より厚く信仰されていた様子がうかがえるという。














2021年9月24日金曜日

能美市巡り(4)七つ滝①

 能美市巡り(3)能美ふるさとミュージアム③ 灯台笹遺跡の続きで、その後、能美市の自然美スポットの一つとなっている「七つ滝」に行った。場所は「北陸先端大学」の裏の方になる「瀧浪」地区にある。

今日の新聞(9月24日)にここ「七つ滝」に関して能美市の中学生の投稿記事が載っていた。滝つぼにはカジカやサワガニ、滝の周りにはカモシカやキツネなどの動物と出会えるし、直物がたくさんあり、春は桜、夏には若葉、秋には紅葉と四季折々の景色が見られる。ここへ来ると心が癒され、いつまでもこの景色が見られるよう自然を大切にしようと記されていた。




















「七つ滝」は能美市指定文化財 名称となっていて、別名「長瀧」や「宮瀧」ともいわれ、一の滝の始まり「大滝」と呼ばれる二の滝など、七つの滝の総称で、全長は約1,050m、総落差50mという。滝の周辺には七つ滝を祀った「瀧浪社」、今もなお大きな礎石が見られる中世のころの「瀧谷寺跡」、墳丘状の土盛りと小石が積まれた「賽の河原」や「経塚」などの地名が残っている。



















駐車場から川の横の有歩道を歩いていくと、川には大きな石がゴロゴロしている。
























最初に見えるのが「六の滝」である。「七の滝」はさらに下の方である。



















滝の上にはツタのような曲がりくねった木が川の上をまたいでいた。



















橋が架かった下には「四の滝」



















途中に一部の水を手動の開閉板により別の場所に分水している所もある。



















川沿いの木は、湿気が多く苔が生えている。

「二の滝」は落差が大きく、迫力のある滝である。



































上から下方向に見る。

2021年9月20日月曜日

能美市巡り(3)能美ふるさとミュージアム③ 灯台笹遺跡

 能美市巡り(2)能美ふるさとミュージアム②の続きで、さらに展示物を見た。能美市が所有している「絹本着色白山曼荼羅図は、寛政時代(1789年)に白山ヒメ神社本殿の建立に関わったという加賀藩御用大工が寄進したもので、筆者は金沢の郷土史家楠部肇と考えられている。白山はなだらかで女性的と言われているが、富士山、立山とともに日本三名山とされ、加賀馬場(禅定道)と白山三所権現(御前峰、大汝峰、別山)の仏神の座とされた主峰群を描いている。右に別山、左に大汝峰、真ん中に御前峰を置き、禅定道は朱色の点線で表し、各所の場所の名札で書き入れている。




















この白山曼荼羅図は、参詣曼荼羅として絵解きに使用されたようで、開山の僧最澄の伝説や女人禁制にまつわる話が随所に描かれている。



















この「能美市」には、1925(大正15)年から1980(昭和55)年まで北陸鉄道の「能美線」が走っていた。鶴来から寺井駅(現根上駅)まで23駅があり、金沢市の白菊町駅から鶴来経由で直通で寺井駅まで走っていた。朝は通勤、通学に昼は石材や肥料を運搬していたという。




















13駅のそれぞれの見どころなどが描かれたものが展示されていた。



















私はこの電車に一度だけ乗ったはずである。それは小学校3か4年の時に「辰口温泉 まつざき」に学校から修学旅行(?)で行った記憶がある。その時、手取川の「天狗橋」を渡りすぐに、トンネルに電車が走ったときに、興奮していた記憶がある。
















別の日に、ここ能美市が「旧石器時代」から人が住んでいたという発見のきっかけとなった「灯台笹跡」を見に行った。途中に「灯台笹公民館」で少し話を聞こうと思っていたが、閉まっていた。その前に「能美線」時代の停留場の看板が建っていたので、この辺りを走っていたのだろう。



















さらに小道の奥に行くと「灯台笹遺跡」の案内板があった。この後ろの木々の中で、60年以上前に、当時中学生だった人が旧石器時代の石器を発見した場所だろう。その後の発掘調査で10数点の石器が見つかっている。



















さらに先に「灯台笹湿地」を見たいと思い探したが、案内板が出ていなく見つけることができなかった。






「パンフレット」より


この後、昼時になったので手取川を渡り、以前に知人から「うまいラーメン屋」と聞いていた「高野酢造」の工場近くにある「こいしや」に行った。さすが人気店だけあって店の前に行列ができていた。



















昔ながらの味だが、人気店だけあって一味違ってメンもスープもおいしかった。

2021年9月15日水曜日

能美市巡り(2)能美ふるさとミュージアム②

 能美市巡り(1)能美ふるさとミュージアム①の続きで、さらに館内を見学した。

平安時代の823(弘仁14)年に、加賀の国が誕生した。それまで越前の国守であった紀貫之の朝廷への申し立てにより、越前から加賀の国を分国した。その理由として越前国守から遠く、巡検ができないことなどがあげられている。




















加賀立国ができるとその行政区画として、石川郡、江沼郡そして能美郡ができた。能美郡は、郡の中心となる「野身」の地名を「能力ある美しい土地」の意味合いを込めて「能美」と名付けたという。以後1200年にわたって、今日まで受け継がれる「能美市」の地名が誕生した。



















「能美」と描かれた墨書土器(復元)



















能美市は、山から海まで続き美しい自然な場所がいくつかあり、この自然を紹介しているコーナーがあった。



















「手取川」、「灯台笹湿地」、「鰐淵」、「ハマナス群落」、「七つ滝」の5つがおすすめの自然スポットとして紹介されている。そのうちのいくつかは訪れたので後日紹介する。
下図の「鰐淵」は、コバルトブルーの神秘的な池だという。














「鰐淵」では、樹上で生活するモリアオガエルが見られるなど、多種多様の生き物や生息しているという。実は後日、この池の手前800mまで車で来たが、そこからは歩きとなっていて、小径の両側がこんもり木が生え薄暗くなっており、「熊注意」の看板が掲げていたので、怖くなりあきらめた。
































続いて、この辺りの大きな農家の居間が再現されていた。中央に囲炉裏があり、家族団らんの場所だろう。床も、戸も濃い茶色の木造である。また、荒縄で作られた円筒状のものは物入か?これらは自分たちで作ったようだ。大正時代から昭和前期の部屋の様子である。



















当時の台所の様子



















昔懐かしい「ぼっとん便所」は、床下にうんちやおしっこをためるトイレがあり、それを肥料として使っていた。少なくなったら町へ行ってうんちなどをもらい、代わりにお米や野菜などと交換し、これを大八車で運んでいた。その昔は、トイレットペーパの代わりにフキの葉などを使っていたという。



















ぼっとん便所
























手取川の堤防付近には「よし」という植物が多く生育していて、これで夏の日よけとして使う「よしず」や「すだれ」が作られた。金沢の町中の古い家などにもよく見られる。
























足で踏んで動かし藁からロープを作る機械で、この辺りの農家では小学生の手伝いでロープができる機械であった。

2021年9月11日土曜日

能美市巡り(1)能美ふるさとミュージアム①

今回は、私が好んで読んでいる新聞の中に「リレー連載」で、先日「能美は2万年前から」というテーマで6回シリーズで連載されていた。

能美市は2万年前から人が暮らす土地だったいう。それは、歴史を変えた大発見があったからだという。そして1200年前に付けられた地名には「美しき能(よ)き国」という意味が込められているという。

読んでみると非常に興味をそそったので、仲間と一緒に「能美市ふるさとミュージアム」に行った。ここは、昨年10月にオープンしたばかりの新しいミュージアムであった。












旧辰口町の「灯台笹」(とだしの)という所から、私たちと同じ世代の1960(昭和35)年に当時中学生だった少年が、自分の裏山の畑から木の葉のような先が尖っていて刃を作りだしたような石が見つかった。この石は少年が「絶対に縄文時代より前の石器だ」と思い、3年後に木の葉の石は2万年前の旧石器時代に、槍の先などに使われたものだと判明したという。これが能美市の歴史を変えた大発見だった。




















旧石器時代の石の先端をとがらせる方法をビデオで映し出していた。



















先端の尖ったナイフ形の石器により、動物の肉を切ったり、皮をなめしたりし、狩りや料理の道具として使われた。
このころの日本は北海道にマンモスがいたり、ヒグマが九州より南しかいないという寒い時代であったようだ。











15000年前くらいから土地は温暖になり、縄文時代には人々は土器や弓などを作るようになり、それまでの遊牧生活から定住生活になった。




















その後弥生時代には稲を作るようになり、ご飯が炊ける「甕(かめ)形土器」も作るようになった。
































弥生時代の後、400年にわたって古墳時代になり、ここ能美市に全国的にもまれな多くの古墳の跡が見つかり、出土品も多く出た。能美市とりわけ「寺井地区」に「和田山」、「寺井山」、「秋常山」、「末寺山」、「西山」の5古墳群は「能美古墳群」として2013年に国の史跡となった。



















前方後円墳や円墳など様々な形の古墳が見つかり、出土品も非常に多く出た。



















和田山古墳から出土された「鉄斧」、「鉄鍬」、「鉄刃」などのレプリカ



















古墳時代の豪族が身に着けていた鎧、兜の出土品のレプリカ
























ここの古墳は木館や副葬品が数多く出土し、力のあった豪族と思われる。また当時のヤマト王国とつい良い結びつきがあり、出土品から朝鮮、中国からのものがあり、大陸と強い結びつきがあったという。日本海に突き出た半島であるから、朝鮮、中国のものが日本海から届き、それをヤマト王国に送る役割もしていたのか?













この立派な「能美ふるさとミュージアム」を見て、古墳群のみならず、2万年前の旧石器時代から始まる能美市の歴史ロマンをこれから「ふるさと教育」や観光振興に強く生かしたいという思いが感じられた。