2023年2月26日日曜日

山田詩朗家住宅 大手町

今回は、大手町の通りから見える前から気になっていた洒落たレトロ建築住宅の「山田詩朗家住宅」を見た来た。ここは、内部が閉ざされているので、外見からしか見ることはできない。最近改装したようで。赤黒い屋根と朱色のモルタル壁が鮮やかな建物である。



















こちらの三角屋根は北方ヨーロッパの山小屋風の半木骨造りの「ハーフティンバー」様式と呼ばれるものを外観的に模倣したもので、構造そのものは日本の伝統的な木造工法で、外観の仕上げ部分は柱や梁を露出させて、これらの部材を張りつけているものである。


















屋根の上の大きな二つのドーマは屋根裏部屋の位置のものか(?)三角屋根にこげ茶色の木枠と白の窓枠の上に木造模様がある、やはりハーフティンバー風の洒落たデザインのものである。


















こちらが玄関で、建物のデザインに比べれば質素なつくりである。
























左側面は切妻屋根の妻側にある破風の頂上部分を斜めに切り落とした「袴腰屋根」で、片側は少し曲線になっているという面白い形状の屋根である。2階は日本的な窓付きの雨戸のようである。その上に大きな庇が付いていて、さらに上の中央に雨樋、両側に窓が付いている。



















大通り側から見た建物の外観で、こちらは右側に急勾配の屋根が大きく下へ下がっており、1階の出窓と共に屋根の途中から突き出た出窓が付いている。腰回りは石のブロック状になっている。



















建物の近くに「手押し井戸ポンプ」が置かれていた。


玄関の裏側も大きな三角屋根や壁に出窓が付いている。いろいろな大きさの窓があって、意匠的にも面白い形状のものがある。


















この建物は、昭和初年に松井組の設計により建てられたもので、レトロな洋風の近代建築である。1年半くらい前に外観が改装されたときに内覧会があり、多くの見物人がいたらしい。その時は建物内部も見学でき、素晴らしいものであったと聞いている。しかし内部は当時のままで、傷んでいる所が多いので、今後改装してから公開されるのではと思う。早く見たいものである。


















その近くの、「金沢市 健康センター 東館」の前の右端に円柱状の石碑があるのを初めて見た。これは「明治天皇・大正天皇臨幸記念碑」と描かれ、菊の御紋が付いていた。これは、1978(明治11)年に明治天皇が医学所に臨御あらせられたことを記念して建てられたものと分かった。この下に碑文が詳細に刻まれていたが、何が描かれているか分からなかった。




































「健康センター」の場所は、もと加賀藩の家老の「津田玄播邸」(現在の兼六園・金沢城管理事務所)があった場所で、明治になって「医学所」そして「旧金沢市立図書館」に変わり、現在に至っている。「金沢市立図書館」の時には、私の学生時代によく利用したので懐かしい場所だ。



2023年2月22日水曜日

13代藩主の能登巡見巡り(5)上時国家②

 13代藩主の能登巡見巡り(4)上時国家①の続きで、「上時国家」をさらに見る。「上段の間」、「下段の間」の縁側から庭園を見る。



















庭はかなり広く、その中心に「心字池」があり、中世的山畔池泉式庭園の典型であるという。背後に山を自然に取り込んだ巧みな構成で、国の名勝に指定されている。


















木々の間にいろいろな形状の巨石があり、日差しの変化に微妙に関わりあうという。
























一面が苔になっている奥の方は木々に覆われていて昼でも暗く感じる。この片隅に沙羅双樹(さらそうじゅ)の木がある。平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者心衰の理(ことわり)」の文字で知られる木だという。


















これは客用の「湯殿」で、火を使わずお湯を運んで入れる湯殿風呂で、貴族の湯殿形式と同じである。桶の中の白い布は、身体が桶に触れないようにするためのもので、「風呂敷」の湯殿と言われる。


















私用部分の部屋には、大庄屋の公務用品、戦国用品、日用品などが展示されており。ごく初期の輪島塗の器など美術工芸品も多い。


















裏側の廊下から2階へ上がる「箱階段」がある。そこの2部屋の天井には「金唐革紙」が貼られている。革に絵模様ををプレスした西洋壁紙で、17世紀に伝来し明治初期に紙幣用厚紙を用いや物が考案され、ここのものはシンプルな模様に和室に調和する渋い色合いが特徴という。明治40年頃には洋館によく用いられたが、和室に用いた例は少ない珍しいものである。
























非公開(室内の案内ポスターより)














茶の間の囲炉裏の前にも普段使われていた小物用品などが展示されている。
























茶の間の障子戸の上の透かし彫り
土間の天井が高く、様々な高さの梯子が置いてある。また向こうには台所が見える。



こちらは、大庄屋をしていた時に使ったのであろう京風の立派な籠がある。これに乗せられてそこらを回ったのであろう。
























上を見ると茅葺の屋根までは高く、大小の梁が縦横無尽に張り巡らされている。


















いろいろな事をやっていたと思われ、もみ殻採り機や杵臼、何かを保存するためのものか大きな壺(?)、祭り用の灯篭(?)などが置かれている。


















こちらも透かし彫りの欄間

2023年2月18日土曜日

13代藩主の能登巡見巡り(4)上時国家①

 13代藩主の能登巡見巡り(3)宇出津②の続きで、宇出津で昼食をとった後、輪島の町野方面に向かった。町野川に沿った県道を走り、外浦に出る少し手前の右側に「上時国家」がある。




















13代藩主斉泰が能登巡見で、「上時国家」で宿泊しているが、ここに入る前に「町野川」を渡るときに、その当時の川幅は36m(20間)あり、両岸から太綱を張り、その間に周辺の村人が所有する船を何隻も並べ、船上に板を渡し、土を以て仮橋としたという。そこを700人の行列が渡ったという。






ゆるいスロープを上がると門の奥に立派な「上時国家
」住宅が見える。


















「上時国家」の敷地内の配置図

























ここで、「時国家」の歴史について紹介する。上時国家より300mほど北に重要文化財の「下時国家」がある。両家は町野川河畔に屋敷を構えていた時国家が分家して二家に分かれた経緯があり、同じ平大納言時忠の末裔である。この時忠は、1185(文治元)年に壇ノ浦の戦いの後に能登へ配流となり、船で能登の国へ着いたという。はじめは浦で生活していたが、その後3kmほど内陸は入った南の方に屋敷を造った。しかし時国家の代になり、屋敷を盗賊に襲われたため、一旦山の中の避難し、時代が安定したころに町野川沿いに田畑を耕作するしたり、製塩や海運などを手掛け繁栄をつづけた。その後、大きな村をつくりその一帯を治める大きな勢力となった。能登は加賀前田藩領となり、今から400年前の12代籐左衛門には男子がなく、甥を養子にして家を継がせたが、まもなく男子が生まれたので、時国家の1/3を切り分けてこの実子に次がせたのが分家の「下時国家」の始まりという。これより当家は「おもや」、「上時国家」tぴょばれるようになったという。江戸時代中頃から天領大庄屋として13カ村を束ねた。そして北前船でも成功して立派な屋敷を建てることができたという。この頃には、常時120人の人々が上時国家に関わる仕事をしていたという。
























江戸後期に21代当主が現在の巨大で格式高い屋敷を28年かけて名工「安幸」が建造した。現存する近世木造民家としては建坪189坪の最大級だという。屋根も入母屋茅葺のもので、大屋根の高さは18m、棟が高く軒が深い。大屋根を支える巨大な梁は、周囲が2mの松の木を使用しているという。一段下には桟瓦葺きの庇が四方に廻りっている。

















総ケヤキ造り唐破風の正面玄関も民家としては珍しい。



















大庄屋屋敷として表向きに公用部分と宇荒向きに私用部分に分けられている。


















大広間から見る「上段の間」、「下段の間」そして「大広間」の襖には、家紋である平家定紋の「丸に揚羽蝶」を金箔で描いて連ねている。「あげは」は羽を広げて上の方に上げた格好のものである。



















大広間の天井は黒漆の「縁金折上格天井」で、最上の次の位を表し、主賓の次に位するものだけが入室できるという。
































座敷の境上部には両面彫りの欄間を飾り、御膳の間の欄間は蜃気楼を彫った珍しいものだ。


















この大納言の格式を持つ「縁金折上格天井」の「大納言の間(別名御前の間)」には「能登巡見」で13代藩主斉泰がこの部屋に宿泊した際に「余は中納言であるのでこの部屋に入れぬ」と言って、この部屋の天井の隅に紙を貼って格式を下げて入室したと伝えられている。














時国家の良いところは、こういう内部のしつらえもさることながら、数百年の時代経過にもかかわらず、建具の一つ一つが大変保存状態がよいのに驚く。

2023年2月14日火曜日

久しぶりの玉泉院丸庭園ライトアップ

今回は、 久しぶりの玉泉院丸庭園ライトアップに行って来たので紹介する。今日は穏やかな日だったので、多くの人が見学に来ていた。尾山神社を通り、藩政期に二の丸に使われたいたという「唐門」をくぐった。


ライトアップされた「鼠多門橋」と「鼠多門櫓」は初めて見る。
































「玉泉院丸庭園」に着いたのは、ライトアップが始まる5分前だった。


















そして、「玉泉院丸庭園」の全体が見渡せる場所に行くと、幻想的な音楽が鳴りだし少しづつ石垣が木々がライトアップされた。








































































































15分だけのライトアップだったが、久しぶりに見ることができて十分楽しめた。今回は「三十間長屋」は修理中で城郭のライトアップはなかったが、修理が終わるとさらにスケールの大きいライトアップになるので楽しみだ。


















帰りに見た「尾山神社庭園」の「図月橋」のライトアップ


















「玉泉院丸庭園ライトアップ」関連の以前の私のブログ