2023年7月29日土曜日

三国湊レトロな街並み(2)旧岸名家

 三国湊レトロな街並み(1)の続きで、その後も周辺の町家を歩いた。この「旧岸名家」は代々新保屋惣助(屋号新惣)と名乗り、材木商を営んだ。この建物は川方の商家造りの典型でである。建築様式は妻造りの前面に平入の屋根を伴った「がぐら建て」という三国湊独特のもので、江戸初期に建てられ、明治・大正・昭和時代に合わされて改造された。先祖は1707(宝永4)年創設された俳諧の結社の初代宗匠で岸名昨嚢(さくのう)と称す。平成16年に三国町が修復して、一般公開。平成17年気に登録有形文化財になった。



















俳諧の日和山結社は、現在まで続いており、その立机式を再現した展示室に俳諧関係資料を並べ、三国ゆかりの文芸作品などを紹介した施設として一般公開している。


















川端に向かって続く「よおり」に沿って、店の間、中の間・座敷、背戸と呼ばれる中庭、そして土蔵が続く。小庭には水琴窟もあるという。この部屋は、床の間と下に棚を持った中の間か。


















そして紅殻色の壁の座敷には、簡易床の間とお仏壇、そして縁側がある。
































奥の中庭も大きく、苔庭に灯篭、飛び石、木々などが素晴らしい。金沢東山にある茶屋や町家の坪庭より広い。

台所の様子で、お釜や臼、桶などの台所の用具が置かれている。

懐かしいレバーを上下させて水を出す手動ポンプ

店の間の表通り側には、蔀戸が隠れており、昼間は下半分だけ格子戸が入っている。主人の座っている場所には柵があり、小さな机や箱火鉢、小さなタンスとここの店デザインの暖簾などが展示されている。


















旧岸名家の隣には、レトロな町家改装した「三国湊町家情報館」がある。ここでゆっくり休憩ができ、周辺の観光情報や町案内をしてくれるボランティアさんが待機しているという。金沢の「まいどさん」の休憩館と同じような所である。
































周辺の地図を見ると、旧岸名家などの裏手にある「九頭竜川」に沿って、奥に長い町家が並んでいた。そして一番川に近いところに町家の蔵が並んでいて、北前船より運ばれた品物を、ここに荷揚げして保管していたという。すなわちこの辺の町屋は北前船時代に繁栄したところである。


2023年7月25日火曜日

三国湊レトロな街並み(1)

「吉崎御坊跡」を見た後、南西方面に20km走ると、「えちぜん線」の「みくに」駅がある。この近くにレトロな街並みが残る場所があるということで見に行った。この辺りは、福井県一の大きな川「九頭竜川」の河口に位置する場所で、古くから 「三国湊」は、九頭竜川と支流の「足羽川」などを使った水運による物流の拠点として栄えた。「一乗谷の朝倉氏」や北ノ庄の「柴田勝家」も荷揚げ用としてここを使っていた。また江戸時代中期からは「北前船」が始まり、関西から北海道までの物品が集まり、物流の一大拠点としてにぎわい、湊町には北前船を所有する廻船問屋が発展し、いろいろな物品を販売する商店などが並び、町は大きく発展した。明治時代も続いたが、鉄道が開通し、物流が船から鉄道に移行し次第に衰退していった。

三国湊は、北前船が残した歴史や文化の名残が格子戸が連なる街並みなどが残っている場所である。

























三国まつりが毎年華やかに行われ、上図は多くの町会でその山車を持っている配置図で、この建物は一つの町会の山車の格納庫である。























近くにあった「和泉金物店」に入ると、以前からやっている金物よりも、面白い手作りの民芸品の置物やこの辺りで得られる材料で手作りのいろいろな楽器(笛やウクレレ、ドラムなど)を作ったものが並べられていた。ウクレレの弦を弾いてみると結構いい音が出た。ここの女主人は、この民族楽器を使って「近所の人たちとのメンバーで練習していて、たまに演奏会を開いている」と言っていた。楽しそうだ。

































こちらの店の前には「畑 潤章の生家」の石柱が建っていた。福井県郷土工芸品認定店で創業寛永3年からの「三国提灯のいとや」という店だ。


















江戸時代は、絵画や俳句の有名な人がこの店をやっていたが、大正時代からは提灯を作り、販売する店になったと描かれている。


















大正・昭和の初期は多くの需要があっただろうが、需要が少なくなった現在でもやっている数少ない店であろう。提灯を製造するとき型と竹ひごを用い手作業で形を作り、絵付けは手描き、乾燥は天日で行う。

「わらび餅・甘林堂」の看板が古風な町家は、1719(享保4)年創業の菓子店である。わらび餅は地元産の小豆と大豆,砂糖を使いシンプルながら奥深い味だという。店内には茶房「鶯花」あり、こだわりの甘味とお茶を頂くことができる。


















2階が黒漆喰が塗られたこの大きな町屋は、骨董書画や古美術品を販売している「大木道具店」で、1,2階とも豪快で古風な店である


















ここのウィンドーに飾られていた屏風の水墨画には、北前船とレトロな蔵が立ち並んだ三国の街並みと高台にあるランドマークとなっている「龍翔館」が描かれていた。















この「龍翔館」は、えちぜん鉄道の「三国駅」を跨いだ高台にあり、白亜の5層8角の楼閣のような建物で、1892(明治12)年に三国湊の性海寺近くに建てられた擬洋風建築の龍翔小学校の外観を模し鉄筋コンクリート造りで復元し、1981(昭和56)年に開館した郷土資料館みくに龍翔館である。地元ではその尖塔部分の姿から「こうもり傘小学校」として親しまれたという。


















2023年7月20日木曜日

吉崎御坊跡(4)道の駅 蓮如のさと

 吉崎御坊跡(3)御山の続きで、その後御山を下りる途中に石垣が積まれた間の穴にいくつかの観音様が安置されていた。これは「岩崎観音」と言われているが、西御坊下の船頭衆たちが「石山観音像」を刻むことになり、船稼業の人たちの長いをこめて、「如意観音」、「普賢菩薩」、「子育菩薩」、知恵の「文殊菩薩」など、海上安全の船霊宮の石仏を建立した。



















続いて、国道沿いに、今年の4月にオープンしたばかりの「道の駅 蓮如の里 あわら」に入った。


















福井県や石川県の名産品が勢揃いしていて、多くに人がお土産などの品定めをしていた。新しい店なので、ぶらぶら歩いてみているだけでも楽しい。


















ここでランチということで、「山菜そば」と福井特産の「鯖寿司」を注文し食べたが、分厚いサバは食べ応えがあり、腹いっぱいになってしまったので、「鯖寿司」の半分は家で食べることにした。


















道路の向かい側には、もと「吉崎御坊蓮如上人記念館」があった場所を改修し、和モダンカフェ「eXcafe吉崎鳳凰閣」があった。外観の古風な建物はそのまま生かし、内部はゆったりできるちょっと高級そうなカフェに改装された。


















こちらのゆったりした場所で、北潟湖や鹿島の森などのきれいな景色を見ながらコーヒーとスイーツでのんびりするのもよいだろう。
































北潟湖をはさんで、吉崎の対岸にあるお椀を伏せたような森は「鹿島の森」である。周囲600m、高さ30mで、鹿島明神を頂上に祀っているいて、タブノキやヤブニッケイ、ヤブツバキなどの原生林におおわれ、国指定天然記念物になっている。ここには、蓮如上人の吉崎に上陸にまつわる伝説が残っており、真宗門徒たちの信仰の対象となっている。文明7年吉崎撤去の際、蓮如上人は小舟により北潟湖から日本海を経て小浜へと移動された。この時夕日に照らされた𠮷崎の御山を振り返り「夜もすがら たたく船端吉崎の 鹿島続きの山ぞ恋しき」の句を残されたという。



蓮如上人が吉崎に上陸して、吉崎を退去するまでが4年と1か月というが、その間に北陸の福井・石川・富山に浄土真宗を広め、住民に愛されてその痕跡が各地に残っているが、何とすごい力があった偉大の人であったかと想像するだけですごいと思う。金沢市周辺だけでも多くの蓮如さん関連のお寺やお話が残っている。
また、蓮如上人は85歳で亡くなっているが、その間に5回目の結婚、最後は70歳の時妻は20歳であり、男5人女2人で、最後は83歳だったという。結局、子供は27人で男13人、女14人であったという。

北陸新幹線が来年に敦賀まで延伸されることになっており、「吉崎御坊跡」近くの「あわら駅」に止まることになっている。新しく「道の駅」がオープンしたのも、その一環だと思うが、「吉崎御坊跡」はこれだけの歴史が残っており、今後、復元なども考えて、素晴らしい観光地に生まれ変わってほしいものである。


2023年7月16日日曜日

吉崎御坊跡(3)御山

 吉崎御坊跡(2)東別院 願慶寺の続きで、さらに階段を上っていくと、山の上に広い平らな丘がある。ここは御山と呼ばれていて、蓮如が大伽藍を建て築いた場所であるが、現在は東西本願寺の共有地となっている。



















この広い高台は、一面苔庭が広がり木々が生い茂っている。


















すぐ近くに「児玉尼のお墓」がある。蓮如上人の4子二女で、上人の吉崎御坊の建立をきき父の下へ馳せ参じたが、まもなく病に伏して1年余りで亡くなった。蓮如上人は児玉尼を荼毘にふす前夜に不思議な夢を見られたことを御文に書き残しているという。児玉尼享年26歳。蓮如上人には、27人の子供がいて男13人、女14人であった。



















さらに行くと「本光坊了顕のお墓」がある。蓮如上人の弟子の一人。文明6年の大火の際に、本堂に取り残された親鸞聖人自筆の「教行信証」6巻の1巻を、燃え盛る本堂の中に入り見つけはしたが持ち出せないと判断し、自らの腹を切り裂き、その中に隠し入れて火から守った。焼け跡から見つかった本光坊のお腹から、赤く染まっていたが無事燃えずにに発見された。それを見た蓮如上人は感嘆され、本光坊の赤い血を忘れてはならないとして、お経の本の表紙を朱色にしたといわれている。現在この「教行信証」は「国宝」に指定されている。































さらに「御手植えの御花松」は、ある時蓮如上人が本堂の飾りの御花松を地面に刺したところ、その松の小枝に値が付いてすくすくと育ったといわれた。元の松は枯れてしまったが、その後2代目の松が植えられた。































「朝顔に つるべとられて もらい水」で有名な加賀の千代尼が懇願の吉崎詣でを果たし感嘆して詠んだ句「うつむいたところが うてなや すみれぐさ」の句碑がある。
























高台からは北潟湖から日本海に流れる川があり、北潟湖の向こうには家並みと低い山が見える。


















さらに向こうは日本海が見える風光明媚な場所である。


















この御山のシンボルが、1934(昭和9)年に多くの門徒からの寄進で建てられた蓮如上人像である。この像は、上野公園にある西郷隆盛像を手掛けた彫刻家・高村光雲で、楠木正成像とともに光雲の3代名像のひとつといわれ、戦争時の金属供出令にも逃れた戦前戦後を通じて国内に残った銅像としては貴重な存在となっている。だいのたかさが7m。像の高さが5mある。




















2023年7月12日水曜日

吉崎御坊跡(2)東別院 願慶寺

 吉崎御坊跡(1)歴史 西別院の続きで、その後、一度下に降りて隣の真宗大谷派吉崎東別院の方に行った。



こちらの山門をくぐると、右手には太鼓堂、宝物館、鐘楼などの建物が並んでいる。中でも「太鼓堂」は背が高く、名古屋城の櫓と同形式の建て方で威容を誇り、現在の建物の中でもシンボル的存在である。










































中央には本堂があり、この建物は1747(延享4)年に再建されたもので、蓮如上人が船上で書いたという六字名号の掛け軸を所蔵しているという。


















その近くには、小さなお堂があり中には「蓮如上人像」が安置されていた。
























また本堂の隣には、「吉崎東別院会館」、「吉崎東別院志納所」の看板が掲げられた立派な建物があった。


















西別院と東別院の間には細い階段があり、嫁おどし伝説が残る「願慶寺」へ上る階段である。
























「願慶寺」は真宗大谷派寺院で、1471(文明3)年に蓮如上人が吉崎道場(坊舎)創建の際、和田重衛が吉崎三十人衆共々、蓮如の弟子となり、願慶寺の初代となり、蓮如吉崎退去後は、「道場」として、道場跡を護持する。1721(享保6)年に願慶寺本堂を本山御坊とし「吉崎願慶寺」と称する。現在は山門と本堂からなる。


















本堂では、「嫁おどし肉付きの面」の拝観と、住職から、そのお面の縁起についての話を聞くことができる。
細呂木の坂口村に住む百姓与惣次夫婦の仲が良く、蓮如に帰依し、毎夜、吉崎詣りに通っていた。それを見た姑がねたみ、ある夜嫁一人が参詣に行くのを見届けて、その帰り道に暗い竹藪の中で待ち伏せ、鬼の面をかぶって驚かせた。信心深い嫁は、少しも驚かなかった。当ての外れた老婆は面をとり、帰ろうとしたが、面が顔にくっつき、どうしても外せなかった。
困り果てた老婆は、蓮如の教化を受けて懺悔すと、ようやく面が前に落ちた。その後は姑嫁共々吉崎に参詣したという。
この伝説は、江戸時代に「雪国嫁威谷(ゆきのなところよめおどしだに)」という題で文楽や歌舞伎となって、多くの人たちを楽しませたのだろう。


















三十六歌仙画帳などを描いた土佐三起(1617~91)の作とされる「嫁威し絵伝」
























「肉付きの面」は、見る角度によって全く変わる不思議な面である。