2019年4月28日日曜日

兼六園の遅咲きの桜2019(1)

今回は、兼六園の遅咲きの桜について講座を受けた後、解説を聞きながら兼六園を巡った。ソメイヨシノが桜の代名詞のようになっているが、それ以外の遅咲きの桜も見ごたえがある。(4月23日)
まず、噴水の近くに、既に満開の時期を過ぎているようだが、まだまだ大きく咲いている「楊貴妃」は淡い紅色ですばらしい。中国人がよく、この前で写真を撮るらしい。



















「寄観亭」の前の大きな八重桜の「カンザン」は、まだピンク色でこれからだろか。結納などのお祝いに出される桜湯は、この花の塩漬けだという。
























一帯が青々した園内の中にあってひときわ目立つ真紅の葉がある。一度緑色になって、秋にまた紅葉するとか。
























上坂口の近くには、高い木に淡黄緑色の小さな花弁の「ウコン」は、古くから知られた桜だという。
























そのすぐ近くに大きくて、淡紅色の「フゲンゾウ」は、室町時代からあったと言われ、その様子が普賢菩薩に載っている象の鼻に似ていることから、その名が付いたという。



















また、その脇に小さい木に咲いているのは「ミクルマガエシ」か?葉と花が同時に開いていく、5~8枚の花弁で、鎌倉の桐ケ谷にあったことから「キリガヤ」とも呼ばれる。「ミクルマガエシ」という名は、昔この桜のそばを通りすぎた人たちが、一重か八重かで言い争いになっため、車を引き返させて確かめると、一重と八重が混じっていたという言い伝えにちなむという。また後水尾天皇があまりの美しさに、御車を返してごらんになったことにちなむという説もある。木の下の方にぶら下がっている黒い袋の中に次期のための花粉を集めるという。
























「山崎山」の奥の方に花の形が桜らしくないブラシのような「ウワズミザクラ」が、少し顔を出していた。



















曲水近くには「兼六園菊桜」の3代目の木にかなりの花が付いていた。2代目は花が付かなく、もう伐採されていて、3代目は去年はあまり咲いていなかったので、もう当分見れないかと思っていたが、これからが楽しみになってきた。



















大きな「ケンロクエンクマガイザクラ」は、もうかなり散り始めていた。「熊谷」の名前は、「コヒガン」に先駆けて咲くことから、熊谷次郎直実の先陣争いの故事になぞらえたものとか。


2019年4月24日水曜日

卯辰山寺院群(4)真成寺

西養寺のすぐ近くに「鬼子母神」で有名な日蓮宗の「真行寺」に行った。山門前の階段下に「鬼子母神 真成寺」の大きな石碑が立っている。石碑の上の方には「柘榴」が刻まれている。
ここの鬼子母神は、加賀藩主三代目前田利常公が篤く信仰された。元小松城主丹羽長重が城内天守に安置し信仰されたものである。利常公は伯父である日条上人(滝谷妙成寺の十五世)に深く帰依せられこの鬼子母神様を上人に託された事から当山の建立となった尚、現在の鬼子母神堂は明治三十八年に再建、本堂は昭和7年に改築された。昭和五十九年には重要民俗文化財の再建、茶室(榴庵)が建設された。
























この寺は、泉鏡花が幼いころ、よく母親に連れられてきたという寺である。彼の作品「鶯花径」に「始終遊ぶのに来ていた処で、また皆が鬼子母神様のお乳だっていって、門の柱がくしの鉄の釘のふりつくした円いもののついた頭を戯れにすいすいした」と描かれている。



















山門を入るとすぐ右に初代「中村歌右衛門」の墓がある。「中村歌右衛門」は宮腰出身の歌舞伎役者で京阪を代表する悪役の名優であった。幼少より気ままな生活を送り、読書を好まず家業を捨てて藩士の家僕となり、放浪したという。他に京都の名工で、加賀蒔絵の祖である五十嵐道甫の顕彰碑もある。

































その前にある小屋の屋根の下に、ここの井戸の中10m深く水中に生息していたという松の根で「松竜」と名付けられている。確かに「龍」に似ているが、この寺と共に歩んで300年以上経った松の根だという。




















人形供養像(まりをつく子)



















本堂の屋根の最上部に「柘榴」の印がつけられていた。「柘榴」は豊穣をあらわし「鬼子母神」につきものだとか。



















本堂玄関の上に13代藩主前田斉泰の揮毫による「鬼子母尊神」の扁額が掲げられている。
























本堂の正面の内陣には、「鬼子母神」が祀られている。


左端には、寄進されたという子供が身に着けたよだれかけや履物、着物、かわらけ、柄杓、絵馬など子供が丈夫に育つようにと多くのものが掛けられていた。子供の守り神としての人々の信仰厚い寺であることが分かる。この寺にある古着で作られた百徳着物や、瀬守を付けた珍しい幼児の着物など産育信仰資料966点が国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。



















子供たちが病気や事故、災害に遭わないよう、また家族の家内安全・身体健全を願って、多くの千羽鶴などがぶら下がっていて祈願が行われている。



















右側の部屋には「涅槃会図」が置かれていたが、横たえているお釈迦さんの上方には海やその向うの陸が見える「涅槃会図」である。部屋の左にあるのは「花嫁のれん」か(?)



















さらに右側の部屋には極彩美の欄間の中央に「南無妙法蓮華経」の額が掛かっていたので、本尊は「日蓮聖人」であろう。(?)



2019年4月20日土曜日

卯辰山寺院群(3)誓願寺

卯辰山寺院群(2)の続きで、さらに奥の方に入ると坂になり、道が入り組んでていくつかに分かれている。



















その坂の脇に「誓願寺」がある。ここの階段や両脇には戸室石が使われているが、少し傷んでいるようだ。この寺は鎌倉から六枚町を経て、現在地に移ったという。



















山門をくぐると右手に「延命地藏尊堂」がある。右手に錫杖、左手に宝珠を持っていて、毎年8月24日には、寺による地蔵供養があるという。



















本堂には本尊の阿弥陀如来像、江の島ゆかりの弘法大使作の秘伝開運弁財天像、苦行釈迦像、箸供養で歯痛平癒を祈願した観世音菩薩を祀っているという。以前は多くの人が詣でたらしく観世音菩薩の前には山のように積まれた箸が載っていたという。
今回は、境内に入るとちょうどここの住職とあったので、この中を見せてほしいことを言ったが、現在改修中なので見せることはできないということであった。外観から見るとこの寺もちょっと寂れているようなので、この若い住職さんに是非盛り返してもらいたいものである。



















それで、ここの住職さんに裏にある有名な方のお墓の場所を案内してもらった。ピンクのきれいな花が咲いている脇を通って裏の墓場の方に行った。



















江戸時代に加賀藩前田家は、毎年7月1日になると氷室の雪を幕府に献上していたが、5代綱紀の時代に金沢の菓子屋の道願屋彦兵衛」が考案した饅頭が、道中の無事を祈り神社に供えられたが、これが「氷室饅頭」の起源と伝えられている。その「道願屋彦兵衛」の墓がある。



















毎年6月12日には「生菓子専門会」役員の人たちで、「氷室饅頭元祖道願屋彦兵衛墓前祭」が催され、墓前に氷室饅頭と清酒が供えられる。




















金沢には「無病息災」を願って「氷室饅頭」を食べる習慣がある。






「金沢の和菓子」より












もう一つは、藩政時代に金沢の金箔製作が幕府の許可が得られなく、衰退していたのを「越野佐助」の尽力により復興させた功労者であるが、その「越野佐助」の墓がある。また、「箔業祖」として「越野佐助」が崇められている石碑が卯辰山中腹に立っている。

2019年4月16日火曜日

卯辰山寺院群(2)来教寺

卯辰山寺院群(1)の続きで、その後「永久寺」の隣にある「来教寺」に行った。山門の右側に「金毘羅大権現」が刻まれた石柱が建っていた。また山門の屋根に小さな龍などが形どられていて、両側に白漆喰の下に戸室石が積まれている。西養寺7代真運の弟子正林が多聞天(毘沙門天)を創立し、また、金毘羅大権現として滋賀県坂本の西教寺の末寺であったという。



















山門の横には「百日紅」の木があり、夏にはさぞきれいな赤い花が咲くのだろう。猿も滑るというつるつるした木である。
























山門をくぐると本堂があるが、その前にも「金毘羅大権現」の大きな石碑が立っていた。ここに「子爵前田・・」と「衆議院議員 横山一平」の名前が見えた。戸室石の灯篭もいくつかあった。



















左側には、この寺の協力者が寄進したという頭の後ろに輪光があり大きな台座に座っている「お釈迦さま」の石塔と下の方が石に積まれた大きな三重の石塔が置かれていた。



















その隣には赤い帽子、赤い前掛けをした「六地蔵」が並んでいたが、お祈りすると学業向上・開運出世・病気平癒の御利益があるとされている。



















本堂の入り口には「金毘羅」の扁額や多くの提灯が掛けられ、また鈴紐がかけらており、神社洋式の風変わり寺院である。



















本堂の中に入るとやはり神社形式をとっていて、左側内陣は金毘羅大権現が中心となっている。


















右側内陣は阿弥陀如来が祀ってあり、脇に馬頭観音・不動明王・毘沙門天が配置されている。また、中央には金沢出身の人間国宝の蓮田修吾郎寄贈の作品の多宝塔が安置されている。



















来教寺は藩政期より幕末まで藩の許可を得た富籤(とみくじ)のお寺でもあった。富籤は今の宝くじのようなもので、その名残を受けて今でもこちらの人槽御籤は評判で、中に入るとここの住職が自ら占ってくれるという。その他にも、「幼児命名」や「家相」、「墓相」、「人生萬相談」などいろいろなことをやってくれるので、ここを訪れる人も多いという。



















来教寺の前に「旧小川町」の標柱があった。「藩政時代は、川(河)端町、西養寺前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治の初め、上、下小川町に改められた。」とあった。今は小川がないが、どんな小川だったのだろうか?

2019年4月12日金曜日

卯辰山寺院群 (1)永久寺

金沢の町は、藩政期の初めに城を守るために、城の三方向にお寺を集めた。というのも、そのころお寺は民家に比べて、広く荘厳に造られていたので、いざ戦の際には武士たちがそこに集まり、砦、陣地として使うための絶好の場所だった。ただ、金沢の町は前田家が支配する前は、一向宗のお寺が多くあり、それらを農民たちが守っていた。前田家が支配するようになってから町づくりが始まったが、一向一揆衆たちの謀反を恐れて、「浄土真宗」のお寺はそのまま残し、「日蓮宗」や「禅宗」などのお寺を多く集められた。寺町寺院群は犀川の向こうの南方向に、南東方向の小立野台地に小立野寺院群、そして浅野川の向こうの東北方向に卯辰山寺院群がある。
下図の薄ピンク色部分が武士の屋敷地、黄色が商人地で黄緑色部分が寺院群



















卯辰山寺院群は、卯辰山を巻くようにがけ下に曲線的に寺院がある。他の寺院群に比べて、入り組んだ細い道で、坂や階段が多いところである。



















今回は卯辰山寺院群へ巡るということで、浅野川大橋を渡り鳴和方向に行き、「東山」交差点のつぎの「東山2」信号の所から右へ廻って卯辰山寺院群に入った。ここからお寺の土塀が多くなり、奥へ行くほど坂の傾斜がきつくなる。



















 まずは、「金沢西国三十三観音の第二十二番」の「永久寺」に行った。山門に「金沢三十三観音」の旗が立っており、前田利家の命により「金澤寺」として1593(文禄2)年に現在の「金城麗澤」付近の地に創建された。以来歴代藩主の祈祷所となった。1617(寛永4)年に3代利常お命により現在の地に移った。利常が「永久寺」にすべしと命ぜられたという。玉泉院丸の幼名「永姫」に由来か?






































小さな本堂に入りお参りしようとすると、賽銭箱の上に、ここの本尊「千手観世音菩薩」の写真が載っていた。この像は「玉泉院」から祈願成就のお礼として寄進されたという。脇の毘沙門天・不動明王も玉泉院が寄進したという。






































境内には、「安産」・「子育」・「息災」・「延命」などのご利益があるという地蔵菩薩堂があった。
























他に三十三観音菩薩像がずらりと並んでいた。