2020年3月31日火曜日

長町武家屋敷 2020早春 風景と花

今回は、桜開花宣言があって3日後の「長町武家屋敷」付近の風景と花について紹介する。
この日は、たいへん寒い日で、なおかつコロナウィルスの影響で人はまばらであった。

































九谷ミュージアム「鏑木商鋪」前にある灯篭は、1822(文政5)年に九谷焼最初の商店として創業した当時から店先に置かれている。表面に九谷の焼き物の絵柄が刻まれている。



















典型的な武家屋敷の面影を残している「大屋家」



















緑地前の桜は、かなり咲いて見ごたえがあった。



















鞍月用水の「せせらぎ通り」



















この辺りは、惣構え堀の名残が残っている所で、裏道へは建物の2階から出るようになっている。

























用水沿いにピンクの枝垂れ桜は、満開までもう少しである。
























昭和初期に建てられた教会前の桜はかなり咲いていた。



















「足軽資料館」にある梅はもう既に峠を過ぎるようだ。




























精霊病院向かいの非常に高い木
























「旧高田家跡」の土塀越しに見える「モクレン」



















「旧高田家跡」の庭にはいくつ子の椿が咲いていた。
























和菓子の「村上」の庭に咲いていた「モモ」









2020年3月27日金曜日

石引界隈(4)真行寺 慶恩寺

石引界隈(3)棟岳寺の続きで、続いて「真行寺」へ行った。ここは、1631(寛永8年)に本多家老篠井雅楽助は、豊臣方の武将木村重成の娘(当寺開基州岩太益和尚)が重成の菩提を弔うため、現本多町に庵を開き、当時大乗寺十五世謙室吞益大和尚に拝請し、開山一世とし、加賀藩3代利常に現在地石引(旧二十人町)に替地し、法隆山真行寺(曹洞宗)として現在に至る。



















寺宝に前田家武人画家、矢田四如軒筆の絵画、六地蔵尊画像中軸(二幅)を所蔵する。
















真行寺の横には保育園があり、そこの保育さんに頼んで「地蔵堂」を開けていただいた。




























藩政時代刑場に引かれる罪人が一本松の橋西詰に立つ地蔵に顔を向け、それを悼んで遺族が横向きの地蔵を造り橋詰めに安置したという。明治41年に他の地蔵2体とともにここに合祀したという。
























他に厄除け地蔵尊や地域各所の地蔵尊が安置されていて、毎年8月22日に大祭を行っている。



















「真行寺」のすぐ近くにある「慶恩寺」は、1491(永徳3)年の創建と伝えられている。僧慶心は金沢御堂の建立にともない本願寺の命を受け御堂衆を務めた。その後越中から飛騨を布教し、90歳で飛騨白川村加須良の示寂した。木の新保から犀川河原町を経て1658(万治元)年に当地に移った。今日のテレビの地元のニュースで、ここの桜が見事に咲いている映像が写っていた。
























また、「慶恩寺」の前にある「円證寺」は、お寺の前に赤戸室石で作られた「戸室山円證寺」と掘られた石造がある真宗大谷派のお寺である。永正元年(1504)藤原重之が出家し、貞珊と名乗って一宇を建立し、円證寺と称した。藤原重之は戦いに負け、河北郡戸室新保村に隠れ住んでいたが、山号はその地名に由来する。
1650(慶安3)年に火災により現在地に移転した。
1687(貞享4)年に木仏(阿弥陀如来)の許状が本山からおり、寺の創建となったという。



2020年3月23日月曜日

石引界隈(3)棟岳寺

石引界隈(1)で、「旧欠原町」から「旧鷹匠町」の上り先に「棟岳寺」がある。入口に「棟岳寺」の木柱と大きな木がある。
ここは、明応元年(1492)、越前南条郡領主・赤座長秋が父母機供養のために建立した。慶安2年(1619)三代利常より寺地を拝領した。
























坂東三十三か所の第二番札所である。



















また、三十三観音 の四番札所で、本尊が釈迦如来坐像、観音様として千手観世音菩薩を祀っている。



















その向かいにある「水府義勇塚」は、1864(元治元)年に起きた水戸尊皇攘夷派志士による「天狗党の乱」で幕府側に処刑された水戸浪士、武田耕雲斎らの慰霊碑で、明治5年(1872)に永原甚之助が自費で建立した。
























その隣にある墓の「永原甚之助」は「天狗党の乱」で官軍として功を成す。幕府に乱の首謀者などに対し穏便な処置を求めたことで有名である。






















「子安地蔵尊」は、かふ座で子供を抱いた珍しい地蔵尊で、中国から伝来したものと古いものといわれる。石像に漆喰を施し白塗りされたもので、顔には加飾のあとがある。由来は安産祈願と子供の無病息災を願うという。  
























堂内の六地蔵は、それぞれ手に巡錫、宝珠、蓮を持ち、連座に立っている。正徳5年~宝暦6年の紀年銘を刻むが、縁起由来などは不明である。



















吉田長淑(1779~1824)は加賀藩が江戸で登用した我が国初の蘭方内科医である。文政7年に金沢で麻疹を発症した12代藩主斉広の治療のために、金沢へ急行したが、無理と過労が重なり、到着後まもなく死亡したという。
























江間氏はもともと越前朝倉氏の家臣井上三左衛門の子江間隼人から始まる。隼人の子竹林坊が前田利家に仕え、竹林坊の子口安が歯科医となった。墓は口安の弟の系譜を引き、藩主の御典医となったという。
























赤座吉家は始め織田信長に仕えて越前南条郡領主となった。慶長5年の関ケ原の戦いの後に領地を失うが、子の孝治が2代藩主利長に仕え、禄7000石を賜る。利常の時に永原と改称した。
























このお寺の境内は広く、いろいろな石造物や有名人のお墓が多くある。現在はかなりの部分が駐車場になっているが、奥の高台からは寺町方向の町並みがきれいに見える所だ。


2020年3月18日水曜日

石引界隈(2)旧欠原町 旧鷹匠町

石引界隈(1)の続きで、その後もこの辺りの道を歩いた。坂と坂の間に横道があり、くねくねと曲がっていているが、ここの地形に沿って造られた道なのだろう。そして上側には石垣の壁となっていて反対側は家が建っているが、その裏側も急坂のようだ。
























この辺りを「旧欠原町」といって標柱には「崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた」とあった。
























さらに歩くと三方向への道があり、真っすぐ行くと「中欠原町」、「下欠原町」へと続く。下の方は「新坂」という坂がある。ここを下ると「唯念寺」があるが、以前このブログでも紹介しているが、そこで「おてらくご」を見に行ったことがある。



















ここの標柱に「 加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた」とあった。この標注の前にべったりとミニバンが止まっており、標柱を撮るのに苦労した。
























また、「旧欠原町」の道に上に上がると、「棟岳寺」に出るが、ここは次回に紹介するとして、その先の道は「小立野通り」に通じていて「旧鷹匠町」の道である。



















ここの保育園の横に「旧鷹匠町」の標柱があり「寛文の初めころから、藩の鷹匠の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた」とあった。先日、金沢城で「鷹匠の実演」をやっていたが、ああいう人達がこの辺りに住んでいたのかと思いをめぐらす。先日の新聞で、鷹匠たちに今は「カラス被害があるところから、鷹に追い払ってもらおうという仕事が来ている」と出ていたのを見たことがある。
























その前の道は、長い真っすぐな道で、今は突き当りに「本多の森ホール」の建物が見える。
























「梅光保育園」は、キリスト教の精神に基づいて保育活動を行っている所である。



















「小立野通」に出てると、「タピオカ」専門にやっている店があったので入った。



















中国人の女性がやっている店で、ここで一服した。こういう店は私一人ではなかなか入れないが、今回は近くに住んでいる連れと一緒で、彼が中国語を勉強していて、たまに来るらしい。



















「タピオカミルクティー」がこの店では一番人気ということで、それを頂いたが、「タピオカ」は、若い人には人気があるらしいが、年寄りの私にとっては甘くてよくわからない味だ。

2020年3月13日金曜日

石引界隈(1)二十人坂、欠原菅原神社

今回は、石引界隈のお寺がいくつか集まっているところを行こうと思い、まず「二十人坂」を上った。ここは藩政時代、足軽二十人組が住んでいたことから名付けられた坂である。足軽屋敷は二十組とか五十人組などが多いが、ここは二十人組の足軽鉄砲隊が住んでいた所という。この通りはフラットバスが通る坂で、ずっと上がっていくと小立野大通りに出る。またこの辺りは桜のきれいなところである。



















二十人坂にある「一本松陸橋」の下には川は流れず、地域住人の生活道路が立体交差している。また、その下にある「揚地町陸橋」も同じである。藩政期からの道の上側に交差するように、戦前に「軍用道路」として「二十人坂」が小立野台地と寺町台地にあった「野村練兵所」を結ぶための道路として造られたために、このようになったらしい。



















「揚地町陸橋」と「勘太郎橋」が見える。



















「一本松陸橋」をくぐった向こう側に「旧一本松」の碑があり「もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる」とあった。
























この坂の近くに「勘太郎川」が流れているが、この川は笠舞1丁目辺りにある湧き水の「大清水」を水源として、いくつもの辰巳用水の分水が合流されて、この辺りを流れている。
ここは、辰巳用水の「石引門」から流れてくる分水が「勘太郎川」に合流している所である。
























「二十人坂」の下には、アーチ形のトンネルもあり「勘太郎川」が流れている。




















この辺りは、坂道でなおかつ曲がりくねっていて、いつも通らない人は、非常に分かりにくい道である。



















 この迷い道の途中に町家の白い暖簾に「二十人坂針灸院」と描かれた店があった。



















曲がりくねった道を上がると、朱色がまぶしい鳥居のある「欠原菅原神社」があった。ここは、鷹匠町に住む藩士津田家(1300石)の邸内社であったものを明治13年に東照宮(尾崎神社)の神職高村勝久が移したものだという。そして2018年に崖崩れにより現在地に移されたばかりだ。




























普段は閉まっているが、ちょうどこの日に、神社の関係者が用事で中にいたので、入ることができた。
まだ木の匂いが残る新しい本殿は井波彫刻、銅板は高岡銅器という小さいが立派なものである。祭神は菅原道真、金毘羅神である。
























そのすぐ近くに横道が走っていて、立派な石垣があり、その上にはお寺が集まっている所だ。