2020年4月30日木曜日

内灘巡り(4)井上靖の文学碑 サンセットブリッジ内灘

内灘巡り(3)の続きで、「内灘町歴史民俗資料館」の前の通りの向かい側には、「内灘総合公園」があり、園内プールやサイクリングターミナル、テニスコートなどスポーツ施設が整っている。ここのテニスコートには以前、会社の人で内灘の人がいて、練習や大会などに仲間と何度か来たので懐かしいところだ。





「砂丘に生きる町」より













すぐ近くに「五輪の碑」という石碑があった。これは私と同じ世代の「辻 正憲」が金沢高校時代に自転車競技でオリンピックに出場し、その後ある会社の監督をし、多くのオリンピック選手を育成したが、昭和60年の「日航ジャンボの墜落」で亡くなった遺徳を偲んで建てられたものである。
私の高校時代のころには、金沢高校から自転車競技で活躍していた人が多くいたという記憶がある。



















その近くに「井上靖の文学碑」がある。井上靖の「北の海」は、作者が自らをモデルに主人公・伊上洪作の青春をつづった作品である。金沢の四高に入学した洪作の多感な生活を描写した「北の海」では、柔道の練習に明け暮れる洪作は夏休みに仲間柔道部員らと内灘砂丘を訪れ、豪快な日本海の潮のうねり、長い地平線に白い波が打ち寄せるスケールの大きさなどを綴っている。




















大きな石碑には、井上靖が詠った「日本海美し 内灘の砂丘美し 波の音聞きて 生きる人のこころ美し」とある。
























井上靖は、四高、京都帝大、毎日新聞に進み、その後「闘牛」で芥川賞、「氷壁」、歴史小説では「天平の甍」、晩年の作では茶人千利休の死を題材にした「本因坊遺文」などがある。ノーベル賞候補にもなったことがあり、1976年に文化勲章ももらっている。
「井上靖の文学碑」は、昭和50年に井上靖文学を敬愛する内灘町民とこれに賛同する石川県か有識者の協力によって建設されたもので、さらに「内灘町図書館」に「井上靖文庫コーナー」が設けられている。




























井上靖のほかに、内灘砂丘を舞台とした作家として「五木寛之」、「大江健三郎」、「三島由紀夫」そして地元の作家としては「杉森久英」、「深田久弥」などがいる。

ここの高台から海の方を見ると、大きな風車が立っていたが、「サンセットウィング内灘」という内灘風力発電所がある。日本海に面していることから、年間を通して安定な風が吹き、風力発電に適していることから2003年に建設された。
























また2001(平成13)年に、それまで河北潟放水路によって分断されていた内灘町の南部と北部を直結する優美な橋が建設された。



















この橋を南部と北部を結ぶ夢の懸け橋として「サンセットブリッジ内灘」と名付けられた。全長344mの斜張橋で、高さ54mの2本の主塔から両側に張り出した各2列9本のケーブルで橋桁を吊っている。この橋は河北潟周辺からも優美な姿を見ることができ、内灘のランドマークとなっている。



















内灘町の自然が作り出す光をモチーフに「時と季節のデザイン」をコンセプトとしたライトアップが春夏秋冬をイメージして映し出され、2009年にその美しい景観がデートスポットにふさわしいとして、海岸とサンセットブリッジ内灘周辺一帯が「恋人の聖地」に選ばれた。



















この橋の前にある「道に駅内灘」近くの展望台からは、天気の良い日には、立山連峰、白馬岳など北アルプスの絶景が見れる場所である。特に運が良いとなんと「槍ヶ岳」も見えることがあるという。金沢市内では、このように見れる場所はない。
もちろんこの日も北アルプスは見れなかったが、冬の晴れた日に来て、一度は見たいものである。
















ここの道の駅には、近くにある牧場でとれるソフトクリームなどの乳製品や新鮮な産地農産物がいっぱい売っている。

2020年4月26日日曜日

内灘巡り(3)内灘砂丘の歴史 河北潟

内灘巡り(2)内灘闘争の続きで、さらに「内灘町歴史民俗資料館」内の展示品を見学した。ここにも「北前船」のジオラマがあった。18世紀後半になると、加賀藩は産物方を設けて領内の産業を奨励し、他藩との通商も活発になったので、一層北前船の活躍がめざましくなった。なかでも向粟崎の嶋崎徳兵衛や粟崎の木屋藤右衛門、宮腰の銭屋五兵衛は御用商人として藩財政と結びつき、18世紀後半から19世紀中ごろにかけて絶頂期を迎えた。



















内灘は、河北潟と日本海に挟まれた細長い砂丘地にできた町で、人々は古くから漁業に生活の糧としていた。そして広大な砂丘を利用した海での地曳網魚と刺網魚が行われていたが、生活が不安定なため、明治以降は日本各地を転々とめぐる沿岸出稼ぎ漁業の歴史だという。




























全国に誇る内灘町のイベントが「凧の祭典」で、従来はゴールデンウィークの5月4日にあったのが、ゴールデンウィーク後の土、日に開催する。南北に伸びる広大な砂浜と上空に吹く海風は凧あげに絶好のコンデションを持つ内灘海岸は、一度に数百もの凧が上がる風景は勇壮である。



















ところで、内灘は「砂丘の町」というイメージがある。内灘砂丘は日本では鳥取砂丘に次いで2番目の大きさだという。
日本の砂丘のほとんどは、海岸線に沿って形成された海岸砂丘で、海岸線に平行にいく列もの砂丘列が分布していて、その列の位置からそれぞれの砂丘が形成された当時の海岸線の位置が推定できる。ところが内灘には1列のしかないが、古い砂丘と新しい砂丘が累積した珍しい砂丘だという。



















2万年前の内灘町周辺の平均気温は7~8℃(現在の札幌市と同じ)で海水面は今よりも100m降下していた。次第に気温が上昇して、海岸線がほとんど現在の位置になったのは7000前のことで、古砂丘ができ、河北潟が誕生したのもこのころで、当時は入江だったという。縄文末期~弥生時代にかけての冷涼化によって海岸線が現在よりも1㎞ほど沖合にあり、ここにも砂丘形成された。その後、再びの温暖化で1km沖にあった砂丘が水没、海岸流や風に運ばれて、縄文前期の古砂丘の上に新砂丘が形成されたのは約1500年前のことである。

現地表下50~40mには、約2万年前の津幡川、浅野川、犀川の河川跡が埋没して残っている。その上に1万~5000年前の海の砂が累積し、内灘町の砂丘地には砂州や小規模の古砂丘が積もっている。すなわち内灘の砂丘は、古砂丘と新砂丘の二階建ての他の砂丘には見られないものだという。



「砂丘に生きる町」より














砂丘における人々の暮らしは、飛砂との戦いに明け暮れたという。加賀藩政時代は内灘の域内にあった六つの村はいずれも耕作できる田地がなく、砂丘の飛砂を防ぐために植林に力を注いだが、集落の移転が続いたという。
これらの植林は、砂丘の砂が大野川に入りこんで川幅を狭め、増水時の河北潟の水引きが悪くなるのを防ぐのが目的である。この費用は毎年加賀藩から支給され、1860(万延元)年の場合、松の苗10,000本、ネムノキの苗36,000本余りという大掛かりな植林を行っているという。このように人々が内灘砂丘との闘い、砂との戦いに果敢に挑んだことがわかる。明治以降も河北郡や石川県からも補助を受けて大規模な砂防工事を続けた。しかし、漁業を主体とする内灘村では、不漁の時は砂防工事の負担が大変で疲れ切っていたという。







「砂丘に生きる町」より












石川県が砂丘の植林に乗り出したの1914(大正3)年、内灘村もその年から10年の植林計画で立て、毎年大金を投じて植林を進めた。この時植えられたアカシアが見事に根付いたことから各集落地の後背地で飛砂が防がれた。他地区でも民家を覆うように竹林が生い茂り成果を出すようになった。
内灘村の地道な植林が功を奏して、砂丘地に数百メートルにおよぶアカシアの林帯が南北に走り、念願の砂防に成功し、硬い砂地に住宅地の開発は始まったという。そして「アカシア団地」が造成され、本格的に町の建設が始まった。
























内灘砂丘の開発ともう一つ大きな事業として「河北潟の干拓」がある。津幡川や森下川、浅野川など多くの川が流れ込んでいるが、土砂の埋蔵量も置く、早くから水田を作ることが考えれていた。加賀藩主5代綱紀は、津幡町の潟端地区を埋め立て新田開発を行っている。その後も、豪商銭屋五兵衛による大掛かりな埋め立て事業が計画されたが、挫折している。しかし戦後になって、遠洋漁業の不振に加えて、食糧事情が悪化してくると、内灘の村々を含め河北潟沿岸の各町村では水田化のための干拓を求める機運が高まってきた。そして紆余曲折あったが、昭和39年から河北潟干拓本格工事が開始された。工事はまず内灘砂丘を切り開き、放水路を造った。その時取り除いた砂を運搬船によって運び、中の水を抜いて干拓地を完成させたのは1970(昭和45)年という。これにより水田理が飛躍的に増え、不振の漁業から農業への変身ができるようになったという。そして、米だけでなく畑作、酪農などが盛んにおこなわれるようになった。
下図は、河北潟干拓事業計画図






「郷土内灘」より

















干拓された後の現在の狭くなった河北潟



















現在の放水路











2020年4月23日木曜日

犀川河川敷緑地公園 2020年春

今回は、時々散歩に行く「犀川河川敷緑地公園」の4月中旬の花木や風景について紹介する。(4月16日)花木の名前ついてはよく分かっていないので、あしからず。
大桑橋から児童会館前まで歩いた。コロナウィルスの影響で歩いている人は少なかった。
大桑橋付近には小さな池があり、普段は子供たちの水遊び場となっている。



















園内には屋根が付いたベンチのある休憩場所がいくつかある。



















道端に咲いていた赤いつつじの花はまだ小さいが、もうすぐ大きくきれいに咲くだろう。




















薄紫の小さな花は「ハナニラ」と描かれていた。



















 一面に咲いている5枚の花びらの黄色い花は「キンポウゲ」か?





































「雪見橋」に沿った道路の手前には「ソメイヨシノ」に比べるとかなり大きな桜の花びらの「カンザン」が見ごろであった。



















江戸時代の終わりごろから知られた濃い紅色の八重桜で、サトザクラのひとつである。兼六園では「寄観亭」の前にある「カンザン」は有名である。



















その道路を超えた広場の近くには、枝垂桜が見事に咲いていた。ここで立ち止まって花を見たり、シャッターを切っている人が多い。

































犀川の川べりに沿って「サイクリングロード」が、海近く普正寺まで続いている。川沿いを自転車で走ると気持ちが良いだろう。



















いつ見ても素晴らしい景色である「雪見橋」の向こうに「戸室山」と「医王山」が見える。犀星の作品にも出てくるが、この山並みは変わってない。



















「ソメイヨシノ」は散り始めていて、芝生の上は花びらでいっぱいだ。



















非常に目立つ 濃いピンクのこの花は「キクモモ」?































休日にはゲートボールの人達でいっぱいになる河川敷の芝生とその向こうは「上菊橋」

2020年4月19日日曜日

内灘巡り(2)内灘闘争

内灘巡り(1)の続きで、「内灘町歴史民俗資料館」の中で「粟崎遊園」の次に「内灘闘争」の展示を見た。
「内灘闘争」は、砂丘を舞台に取り込まれた戦後初の基地反対闘争である。1952(昭和27)年在日米軍は、朝鮮戦争を背景に日本での砲弾試射場の提供を要求、政府は内灘を候補地とした。これに対し地元住民は反対運動に立ち上がり、政党・労働団体・学生・知識人などの支援を得て、全国的に注目される基地闘争へと拡大した。
























しかし翌1953(昭和28)年からは試射が始まり、政府は試射場の永久使用の方針を決定、これに対する住民の陳情や座り込みがくり返された。内灘の人は漁民が多く、男は県外の海へ出かけていないので、デモの参加するのは金沢の町へ魚の行商をする女の人が多かったという。










 政府は石川県選出の参議院議員林屋亀次郎を接収担当の国務大臣にして説得に当たらせた。
1953年の参議院選挙で接収反対を掲げた井村徳治が林家を破って当選したが、当時井村は片町百貨店を経営していて、一方林家も武蔵が辻の丸越百貨店を経営していたことから「武蔵大和の日本海決戦」という言葉で白熱した選挙戦となったという。
























その後、村内の分裂、試射場の強行などによって運動は次第に弱まり、同年9月に村は試射場の使用を3年間認め返却することで妥協に至った。具体的には漁業という「金」、河北潟の干拓、開拓、道路建設などの補償事業を取り付け、これらの補償は村民を変え、意識を変え、また内灘も大きく変えてしまったという。補償の評価は内灘住民にとっても一様ではないが、いずれにしてもこの闘争は全国の基地闘争に大きな影響を与え、「草の根民主主義への出発点」と高く評価されているという。



















そういえば私が小学生の低学年のころ、街中では聞こえなかったが卯辰山に上がったときに、建物などの遮蔽がないので海方向から「ドーンドーン」と試射場の音が聞こえたのを覚えてる。



「郷土内灘」より















試射場として使われていた砂丘地の様子



「郷土内灘」より















米軍の試射風景



「郷土内灘」より










金沢をこよなく愛する「五木寛之」氏が、早大1年の時に県庁前の「内灘闘争」のデモに参加したと聞いている。また、私が20代の前半に「五木寛之」氏の作品「内灘夫人」を読んだことを思い出した。ストーリーは全く覚えていないが、内灘闘争に参加し、結ばれた学生夫婦を主人公にし内灘闘争と学生運動の状況をめぐる物語だったという。小説の最後には「さようなら、私の内灘 私の青春」と結ばれている。




「新金沢小景」より



















いまは内灘にある権現森のニセアカシアの林の中にひっそりと残るコンクリートの「着弾観測所」の建物だけが、約65年前の米軍の砲弾射的場の名残をとどめている。




「新金沢小景」より














また、内灘闘争を背景に映画化されたという「非行少女」の主演の和泉雅子と浜田光夫が写っている写真が展示されていた。この映画を私は香林坊の「大神宮さん」裏にあった映画館「金沢日活劇場(?)」で見たことを覚えている。映画の中で二人が「金沢弁」を使っていたが、しゃべり方が面白く館内で大笑いが出たのを思い出す。



















他に、「内灘闘争」真っ最中の頃に「バカヤロー解散」で有名な吉田茂首相が、後に林屋亀次郎の喜寿祝に金沢に来た際に、内灘試射場跡を訪れた写真も掲載されていた。