2022年3月30日水曜日

尾崎神社(3)拝殿・幣殿、本殿①

 尾崎神社(2)境内の続きで、次に拝殿・幣殿、本殿の中を昨年11月に見たので紹介する。

屋根は入母屋造り銅瓦葺で、正面が向拝と据破風で、その他の桟方向は入母屋造りである。軒瓦の文様は、軒平は唐草、軒丸は三巴紋である。




















拝殿・幣殿の建物の背後に中門があり、その先に本殿の建物が見える。それらは他の東照宮と同じで「権現造」と呼ばれ、外周を朱色の「内玉垣」で囲んでいる。これらは重要文化財となっている。


















屋根下の垂木は二重に細かくでており、両側に縦横の格子状に蔀戸が組み込まれている。両開きの桟唐戸には唐花と唐花の透かし彫り、そして金属の徳川家の葵の御紋が付いている。



















拝殿正面の両側の柱の木鼻は龍が彫られている。この2本の柱は水引梁で繋いでいる。


















「尾崎神社」の扁額と屋根の庇を受ける組物


















拝殿の中にも「尾崎神社」があり、葵の御紋が染められた白い幕をくぐり中に入る。


















梁の上に彫刻付きの蟇股と組み物が周囲の所々に付いている。


















天井は黑い格天井になっており、格縁の辻金具として出八双金具をうち付けている。さらに中には細かい格子状になっている。そして洒落た2種類の照明が付いていた。


参拝者が幣はくを捧げる幣殿からは「中門」が見える。


















拝殿・幣殿と本殿の間にある「中門」は観音開きで、朱色の飛田塀に黒い枠がある。上と下に透かし彫りの文様がある。屋根の下に「波に犀」の蟇股がある。

2022年3月26日土曜日

尾崎神社(2)境内

尾崎神社(1)藩政期の御宮の続きで、城内の北の丸から「甚右衛門坂」をおりる。この坂は、天正8年に佐久間盛政が金沢御堂を攻めた際に、本願寺方の浪士の平野甚右衛門がこの坂で奮戦し、壮絶な討ち死にをしたことからその名が付いたという。

下図の写真は2月ごろに撮ったものである。

「甚右衛門坂」の下周辺には、伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていて、丹波国守護代の内藤如安や宇喜田秀家に仕えてた宇喜田休関など、高山右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士は集まっていたと案内板に描かれていた。












この惣門は、江戸時代の北の丸にあった「惣門」や「随身門」と違い、八脚門であり様式が違うので、明治時代後になってから建てられたものであろう。右側に大きな「尾崎神社」の標柱が建っている。



















この総門と朱色の「玉垣」で境内が覆われている。


















重要文化財である尾崎神社の「拝殿・幣殿と本殿」は雪から建物を守るために冬の間は朱色の囲いで覆われている。


















拝殿前の「狛犬」も頭に雪がこんもり載っている。



















拝殿前の参道の右手には「手水舎」があるが、江戸時代の絵図に描かれている「水屋」であろうか?


















そして左手の先には鳥居とその先に大手町側から入る別の出入り口がある。


















境内にある木々には花が咲いているように雪が付いていて、朱色の「玉垣」とのコントラストが見ごたえがある。


















山門横に「辰巳用水分流再興碑」が建っていた。藩政期に金沢城内から防水用として大手堀から十間町、博労町を経て西内惣構堀へ導通する分水が明治初期まで流れていた。これを記念して近所の有志が碑を建てたものである。
































2022年3月22日火曜日

尾崎神社(1)藩政期の御宮

今回は、昨年11月に「尾崎神社」について研修と拝殿・本殿の中を見せていただいたので紹介する。

「尾崎神社」は、もと金沢城内北の丸にあった「金沢東照宮」、「御宮」と呼ばれた由緒ある神社である。「金沢東照宮」は、1643(寛永20)年に創建されたが、廃藩置県後の1874(明治7)年に「尾崎神社」に改称された。尾崎の名の由来は、山の尾(小立野台地)先端(崎)の位置することから名付けられたという。














1640(寛永17)年に4代藩主前田光高が幕府に願いでたところ、2代将軍徳川秀忠の外孫であるという血縁を理由に、幕府は東照宮勧請の認可をした。金澤東照宮の別当寺である常照院は、同年寛永寺(日光東照宮創建に尽くした天海の創設)内に置いた支院で150石の寺領を寄進して創設された。寛永18年から幕府の木原杢じょうが設計を行い、加賀の大工清水助九郎らが施工にあたり完成し、1643(寛永20)年にご神体を東叡山から迎え社殿を竣工した。前田家の勧請は全国の外様大名に影響を与え、以降約600の東照宮が全国に誕生したといわれる。

廃藩以降は金沢城内が陸軍省管轄となっため、明治11年に御算用場跡地の現在地に移転した。現在祭神は天照大神・源朝臣家康、菅原朝臣利常の三体となっている。

藩政期には城内の「北の丸」にあり、甚右衛門坂から上がって、坂の上を左に曲がって、二の丸に入る「土橋門」の前を通り、「新丸」に下りるまでの道の左側の敷地にあった。金沢城内の「御宮」といわれた。





「よみがえる金沢城」より








現在、ここは城内関係者の駐車場になっている。












下図は「加賀国金沢之絵図」の「御宮」部分で、寛文8年~延宝7年のものである。藩主が参詣に来たときは、三人の藩士がお供し、「総門」で馬を降り中に入ったという。また、城下の町民たちは東照宮を参詣することは可能であったが、城内ということで庶民の参詣時間が制限され、特別な祭礼もなかったという。(赤線がルートコース)


下図は120年後の文政3年の「御城中壱分碁絵図」で、二つの絵図から藩政期には建物の配置はあまり変わっていないことがわかる。ここは、幸運にも宝暦の大火(1759年)や文化の大火(1808年)でも消失しなかったことから、創建当時の建物がそのまま残っていたのであろう。
下図を見ると、甚右衛門坂の上の方で左に曲がると桝形があり、そこから「尾宮坂御門」をくぐり、そこからすぐに北側に折れると参道があり、その先の「随身門」をくぐる。その先を東に折れ、参道を歩くと鳥居があり、さらに進むと「拝殿・幣殿」にいたる。拝殿の奥に「本殿」がある。拝殿の手前は「水屋」さらに奥に「井戸」がある。また左側には「摂社」がある。「拝殿・幣殿」から左側には、「本地堂」と「宝蔵」がある。「本堂」の右側には「御供所」がある。
幕末の頃には、甚右衛門坂の上の右側には「時鐘」が描かれた絵図が残っている。江戸から来た「溶姫」が「金谷御殿」で療養しているとき、「音がやかましい」として、新丸の方へ移されたということを聞いたことがある。そしてその後「西別院」に移されたという。
























下図は、明治11年に北の丸から現在地に移転された際に作成された配置図で、「随身門」は移転されていないし、「本地堂」は「護摩堂」として「長田菅原神社」に移転している。「神餞所」、「水屋、「井戸」の位置も変わっている。現在はその「神餞所」(御供所)もない。










図は渡部知先によるが、加賀藩御大工の渡部祐六郎のこである。「拝殿正面図」と「本殿側面図」













尾崎神社が現在地に移った後に、明治から戦前までは陸軍九師団が入っていた。下図は昭和16年の旧金沢城配置図であるが、北の丸には「将校集会所」や「被服庫」が描かれている。





「よみがえる金沢城」より
















戦後は、昭和24年から「金沢大学」になったが、ここ北の丸には大学の先生の家族を伴った宿舎があったと私は思っている。というのも私は「旧NHK放送会館」近くにあった「殿町幼稚園」に通っていたが、その時にここから通っている先生の子供が一緒の園内いたことを覚えている。そして小学生の頃にここに来た時に、その建物があったのを見た記憶がある。

2022年3月18日金曜日

金沢蓄音器館(2)

金沢蓄音機館(1)の続くで、さらに館内を見学する。
17代前田家当主の「前田利建」氏は蓄音機に非常に興味を持っていたらしく「電蓄回顧録」が展示されていた。多くの種類の蓄電器関連のものを購入したり修理していたことから、よっぽど趣味として凝っていたのだろうか。

























この立派な電気式の蓄電器は前田利建氏が所有していたものである。











館内の2階には、歴代の手回しばかりの有名な蓄音機が7,8台並べられていて、ここで当時のレコードと当時の蓄音機で、その音色を聞き比べる催しをやっていた。蓄音機やレコードなど説明員がいてその特徴を分かりやすく聞くことができた。その音色はさまざまであるが、どれもよい音色に聞こえ、説明員からどれがよいかといわれてもよく分からなかった。

蓄音機は雑音が聞こえるが、演奏者が目の前にいるような臨場感とぬくもりが感じられ、今のCDとは違う懐かしさが感じられる。

















これはエジソンは蓄音機を発明したころのもので、レコードといっても平円盤型ではなく筒状のものだが、それなりによい音色が聞こえた。



















「蓄音機の王様」と呼ばれる、アメリカの会社ビクターが1925年頃に発売したという「ビクトローラ・クレンデサ」は、非常に高価で飾りがついた棚のようで、中には大型スピーカーが入っていて音質がよく、オーケストラ演奏にぴったりという。























こちらはスピーカ部分がラッパ型の木製で、扉を開くと出てくる。




















こちらの大きなスピーカは新聞紙を何枚も張りつけて、1年半も作成に費やしたというものである。こちらもよい音色を聞かせてくれた。一つはイギリスで作られたものだが、こちらのスピーカは金沢の人が1年半かかって作ったという。



















レコードは当初SP(スタンダード・プレーイング)といって、大きさは直径12.5~30cm、78回転盤で、片面約4分間再生できたという。特定の昆虫の分泌物で作られ、割れやすかったという。
1948年に片面20分以上再生でき、丈夫な塩化ビニール製のLP(ロングプレーイング)レコード(直径30cm盤 33 1/3回転)が登場した。



















「金沢蓄音機館」の概要説明のポスターが貼られていた。



















蓄音器関連の年表が載っていた。エジソンが発明してから145年経つが、その後さまざまな蓄音機が進化して出てきた。私ら世代も20代のころは、競って部屋に置いたものだ。しかしCDが出て、さらに今はダウンロードして曲が手に入るようになって、歩きながらスマホなどで聞けるようになり、すっかり変わってしまったようだ。



















レコード盤といえば「平円盤」や「円盤型」であるが、蓄音機が発明された当初は、シリンダー型になっていて、蠟やセルロイドなどで作られていたという。



















「バレルピアノ」は、オルゴールのようなもので、おおきなシリンダを回転させて、表面の角でハンマをはじいて音色出すものである。

















2022年3月14日月曜日

金沢蓄音器館(1)

今回は、尾張町にある「 金沢蓄音器館」に久しぶりに行ってきた。ここはレンガ風の建物で、向かいにある昭和初期の近代建築で有名な「三田商店」と同じで、角に玄関がある洒落た建物である。




















ここには、蓄音機が600台やLPレコード約3万枚を所蔵していて、普段は150台展示しているという。初代館長の八日市屋浩志さんが、戦前から蓄音機店を営んでいた。1975年ごろ捨てられた手回し式の蓄音機を見て、心を痛めて集めて直したのが始まりで、その後に次々と集めるうちに蓄音機が540台、レコードが2万枚になり、それらを市に提供し2001年に金沢蓄音器館が開館したという。「蓄音」をわざわざ「蓄音」にしたのは、蓄音機を単なる機械でなく、楽器あるいは工芸とみなす、創立者八日市屋浩志のこだわりだろうという。



















あの発明王の「エジソン」が蓄音機を発明したのは、1877(明治10)年のことである。その頃、日本では「西南戦争」があった時である。エジソンが自分の朗読「メリーさんが子羊を飼っていた」を吹き込んだのが始まりで生まれたという。












音の出る仕組みをわかりやすく描かれていた。











ターンテーブルを回すのに、電気のない時代は「ゼンマイ」を使っていた。私らの子供時代の動く玩具はほとんど「ゼンマイ」式だったろう。あのねじを回して「ゼンマイ」のエネルギーを蓄えてから動かしていたのが懐かしく思う。

























これは、針の動きを空気振動に替える「振動板」で、「雲母製」や「ジュラルミン製」などいくつか材質のものが展示されていた。



















最近は見られなくなったが、「ビクター」のこのちょっと首をかたげた犬のマスコットは、あちこちでよく見かけたものだ。











1930(昭和5)年、アメリカ「コロンビア」製の卓上型蓄音機

























蓄音機の王様と呼ばれるる、アメリカビクターの1925年頃に発売した「ビクトローラ・クレデンサ」は非常に高価で飾りがついた棚のように、中に大型のスピーカが入っていて音質がよく、オーケストラ演奏にぴったりだった。
























蓄音機の音を響かせるラッパは、必ずしもトランぺット型でなくても様々な形状のラッパが考案され、機能と美しさを兼ね備えた朝顔形ラッパが主流となった。材質も金属や木製、紙製などがあり、材質の違いによる音色が比べらるようになっている。