2019年3月27日水曜日

西養寺(2)境内など

西養寺(1)の続きで、ここの境内などを紹介する。境内には、鐘楼と大きな石や灯篭、のぼり旗が立っている。また、苔類が青々としていてきれいだった。



















鐘楼は金沢市の指定文化財になっており、入母屋造・桟瓦葺の屋根で軒瓦には「梅鉢紋」が付いていて、前田家との関りを偲ばせる。そして戸室石の基壇に建っている。1851(嘉永4)年建立の棟札があり、山上全之輔吉敏の大工名が描かれている。この鐘楼は北陸の禅宗を代表する数少ない入母屋造、扇垂木の鐘楼として貴重で、金沢の寺院建築を代表する貴重な建造物だという。そして「高台に位置する境内から、鐘の音が卯辰山山麓の町場によく響き渡ったものだ」という。
























その横には、非常に高い天神石塔がある。
























薬王稲荷大明神




















本堂の横には、観音堂・聖天堂・護摩堂を合わせた建物がある。この中に綱を張った柵に囲われた井戸があり、井戸に向かってお参りすると白山に届くといわれている。井戸の水は、白山に通じる霊水の信仰がある。ここの井戸は、前回の奥さんから説明を受けた時に見せてもらった。



















藩政期、井戸の縁起を説明する双六が大いに流行ったといわれている。双六は、西養寺を振り出しに、鶴来の日御子( ひのみこ)の“手たたき清水”を参拝し、白山宮を上りとするもので、往時の街道筋の庶民生活に思いをはせることができるという。私はまだ行っていないので、後日、この「白山詣双六」に載っている所を巡りたいと思っている。

























ここの境内には、ケヤキ、タブノキ、エノキなどの高木30本、つばき、ひさかき、ツツジなどの低木2160本あり、四季折々に風情豊かな表情を表す樹林は、東山寺院群370余年の歴史を偲ばせるという。
























ここには芭蕉門下の宮竹屋小春の墓がある。芭蕉が金沢に来た時にこの宮竹屋に泊まっている。このお墓の近くに、きれいに水仙が咲いていた。



















この寺は、もと坂東三十三所の三十二番であったが、、明治の神仏判然令によって三社あった天台宗の常光寺が復職して神職となった時に、十一面観音をこの寺に隠しておいたのがしばらくして発見され、西国三十三番のうちの十九番となった。それでここには、坂東三十二番の聖観音と西国十九番の十一面観音が並んで安置されているという。本堂の裏に西国十三観音像が壮大な感じで並んでいた。




















また、その隣に「不動明王」や「釈迦如来」、「文殊菩薩」など十三仏が並んでいた。














2019年3月23日土曜日

西養寺(1) 涅槃会

今回は、東山寺院群の中にある「天台宗」のお寺の「西養寺」で涅槃会があるということで行ってきた。ここは数年前に関東に住んでいる親戚のおばさん夫婦と訪れて以来である。ここは、金沢三十三観音の寺巡り第十九札所である。



















大通りから「西養寺」までは、曲がりくねった細い道を通り、高い階段を上る。山門の前から階段下を見ると、金沢の街並みが見え随分高台にあることが分かる。



















山門をくぐり、右側には身代わり地蔵の「地蔵尊」と「観音堂」、「龍神堂」が置かれている。


































「西養寺」の来歴は、寛正のころ(1460~1465)に、越前の府中において天台宗の盛学法師によって創建された。7代住職真運上人の時に、前田利家公がよく御参詣され、続いて利長公も上人への信望を深められ、利長公が越中守山・富山・高岡へと移り、さらに金沢の八坂に寺坊を建立した。その後、1612(慶長7)年に前田利常公より現在地を賜り、諸堂を再興して加越能の天台宗寺院の触頭を拝命された。




















本堂に入ると、まず、数年前に小学生が「目が動いている、口が動いている」と言ったのが新聞に載り有名になった「釈迦出山図」を久しぶりに見た。よく見ているとそのように感ずるので不思議だ。
























その隣には、近所のおばあさんが届けてくれた釜のお礼に住職がおばあさん宅に向かったら、おばあさんが亡くなっていたという話の「ゆうれい釜」が置かれている。



















本堂では多くの人がお参りに来ており、涅槃会のお経が始まった。本尊は阿弥陀如来で両脇に勢至菩薩と観音菩薩である。内陣の周りには奉納された多くの「各種の如来や菩薩、明王」などの幕が張られていた。寄進者の中に「金箔のさくだ」の名前が描かれている幕が見えた。








ここの涅槃図は「絹本着色釈迦涅槃図」で、寺町大円寺心岩住職下絵による大作であるという。横たわっているお釈迦さまは黄金の衣類を着ている。



















西養寺の住職さんの後に、来教寺の住職さんの説話があり、涅槃会について分かりやすく説明してくれた。涅槃はお釈迦さんの入滅の日で、一切の苦しみから解かれ悟りを開くことである。全ての命はつながりの中で存在していて、自分を支える人に感謝と反省、恩返しをすることにより人は幸せになれるとお釈迦様が教えを説いている。戦国時代は、お寺は広かったので陣地として使われた。この近くの大衆目(馬場、森山地区)は社寺の道具を作っていたので、税を免除されていたなどのお話があった。
























その後、恒例の「餅まき」がはじまり、お参りに来た人たちがたくさん拾うおうと一生懸命であった。



















もらった「純金入りのねはん団子」は、青、緑、黄、ピンク、白色などのきれいな餅だ。檀家さんや近所の人たちが前日に準備するのも大変だったと思う。この餅を「お守り」として持つかあるいは味噌汁の中に入れたり調理して食べることにより「無病息災」や「家内安全」、「子孫繫栄」などの御利益がある。

2019年3月19日火曜日

モダン金澤展

今回は、「金沢学生のまち市民交流館」で紙資料が語る「モダン金澤展」というイベントがあると新聞に載っていたので見に行った。玄関にはイベントのポスターが貼ってなかったので、ここでやっているのかよくわからなかったが、とりあえず中に入るとここの土蔵の中でやっていた。
























明治から昭和にかけてのイベントポスターや娯楽施設のチラシなど、金沢の大衆文化にまつわる資料を一堂に集めたものだという。これらを集めた人は現在70歳過ぎのおじさんで、若い時に尾張町に住んでいて、そのころからこういうものを集めるのが好きで、このコレクションー活用を金沢学院大学の先生に相談したのがきっかけで、このイベントが企画されたという。
























会場でまず見たのが「ご当地ソング」のレコード盤で、私が最初に浮かんだのが西田佐知子の「香林坊ブルース」である。それはどこにあるのと聞くと、すぐに指さしてくれた。どんなメロディーだったかは忘れてしまったが、なぜか記憶している。
























他にも都はるみの「金沢の夜」など多くの曲があったことを知った。最近の曲では松原健之の「金沢望郷歌」や、渚ゆう子「友禅流し」、北島三郎の「加賀の女」はよく知っていて、私もたまにカラオケに行ったら歌う曲だ。

































地元の歌手としては、もう50年以上前に流行った人だが、村田英雄にヘルスセンターでスカウトされて歌手となった「新川二郎」は有名で、他にも「加賀城みゆき」や「小宮恵子」(?)なども確か地元の歌手だった記憶がある。

下のポスターはいつのころのもであろうか?場所が「尾山神社境内」と「外堀公園」とは「百閒堀遊園」あたりであろうか?



















「金沢400年」記念として、「長町武家屋敷の土塀」や「兼六園」のきれいな絵なども貼られていた。
























「金沢市新旧町名大鑑」という金沢市内の地図が貼ってあったが、描かれている道路から見ると明治時代の中頃の地図か?色分けした六ブロックの区分はどんな分け方なのであろうか?



















明治時代と昭和58年の写真が並べられていた。明治時代の写真から道は狭く舗装されていなく、家は木造2階建てが多く、石置き屋根が多い。昭和58年の写真ではビルが多くなって、道が広くなっているが車で混雑しているのが分かる。



















この展示は約10年くらい前にもやっており、今回よりも資料の陳列が多かったようだ。
























このイラストマップは武蔵が辻辺りを中心のもので、私が東京に行っている昭和50年代のものと思われる。イラストで建物などが描いてあると非常に分かりやすいので、こういう地図が多くあると便利だ。私が子供のころにあった建物がまだたくさんあったので懐かしい。



















「金澤ふるさと倶楽部」の人は、まだまだたくさんのポスターや資料を持っているので、もっと大きな展示場で是非見たいものである。

2019年3月15日金曜日

大和町広場(4)金沢職人大学②

大和町広場(3)金沢職人大学①の続きで、各科についてもう少し詳しく紹介する。
























「大工」は「住」にかかわる仕事で、大工職人の基本は「規矩術」、つまり「さしがね」を使いこなす技術だそうだ。その最たるものが「金沢城」の築城で、図面をしっかり描いて、「規矩術」を活用してぴったり合うように木を加工するという。金沢の大工職人は腕の良さが現れているという。

































「石工」は、例えば石垣の表面加工に使われる「ツル」の刃先造りから始まるという。体力がないと「石工」は務まらない。石垣の修復作業などをやる。昔は石を切るのをノミで直線状に数か所へこみを入れて割っていた。今は電動ノコで水をかけて切っているが、昔のやり方の方が早いと言っていた。下の写真は「粗加工積み石垣」の表面をツルで加工している。





「金沢の町屋」より













「瓦科」は金沢城の「鉛瓦」や社寺、町屋の瓦葺き替えそして一般民家は石置き屋根だったので、それらの実習作業を行う。



















特に大きな社寺などの瓦屋根は、昔は手作りの瓦屋根なので1枚1枚多少ひずみや寸法が違うので、それを修正するには大変な苦労があったと思われる。






「金沢の町屋」より

















「左官科」は竹で編む「小舞」造りや土壁の粗塗りから仕上げまで塗り方、あるいは「なまこ壁」のような漆喰塗りの実習をする。作業者の鏝の使い方で出来栄えが決まる。民家の部屋の土壁や武家屋敷などの土塀など金沢の屋敷には修繕する所がたくさんある。





































「畳科」は畳床や茶室畳の政策実習などをやるという。縦と横交互に積まれ藁を芯にした畳床の表面にイグサを編んだ畳表でくるんだものをいう。それを糸でしっかり結び引き締めていく。その締め方に「機械縫い」と「手縫い」があり、「手縫い」は締め方が調節できるができる人はわずかだという。




















「金沢の町屋」より












畳床の材料の藁だろうか?太いものから細いものまで何種類か置かれたいた。。



















「建具」は住宅やお寺の間仕切りを作る職人で、間仕切りといっても襖、障子、扉、窓などがある。格子戸もその一つだという。材料を製材して鉋をかけて棒材にしてノミではつっての部材作りが基本だという。桟の合わせ目の方法が素人目にはどうやってやっているのか不思議である。






「金沢の町屋」より



















「金沢の町屋」より











長町武家屋敷に「金沢職人大学研修塾」がある。ここには第1期の研修生が造ったという。金沢の医王山や戸室山など山並みを石で表した庭「山景園」や茶室「匠心庵」などがある。

2019年3月11日月曜日

大和町広場(3)金沢職人大学①

大和町広場(2)市民芸術村②の続きで、その後、「事務所棟」の横に並んでいる建物群の「金沢職人大学」に行った。ここは、金沢市の文化的・歴史的建造物を修理・復元などに要する知識や技術を習得し、金沢市の街づくりに貢献しうる人材を育成するために平成11年10月に開校された。こういう学校があるのは全国でただひとつ金沢市だけだというからすばらしいことだ。



















ここでは、下記の「住」に関する9科があり、研修生はほとんどが昼は会社員として仕事をしており、平日は夜にまたは休日に研修授業を受けているという。
























建物は3棟あり、ここで国や県・市の学識経験者および技術保持者が講師となって、研修生に対して3年間みっちり講義と実習により人材を育成するという。



















土曜日だったので、ちょうど土壁を塗っている「左官」の実習風景が見られた。
























建物の周りには、実習のための材料やサンプル、作品などが無造作に置かれていた。
辰巳用水などに使用された「石管」や木材などが置かれている。



















建物の前の敷地に置かれたきれいに磨かれた石が並べられていた。



















実習に使われた石造物の作品およびサンプルが並んでいた。



















大きな木が土塀の屋根瓦に入り込んでいる。金沢の街中でも少し見られるが、有名なのは長町の武家屋敷の「大屋家」の土塀がある。これも独特の屋根瓦、土塀など作り方があるのだろう。



















建物の中にあった「石置き屋根」と「瓦屋根」のサンプル
「石置き屋根」は、江戸時代から昭和の初めまで金沢の家はほとんどがこれであったという。小さな薄い板を何枚も重ねた上に石が置かれ、手前に石が落ちないように木材が置かれている。「強い風が吹いたらとんでいくのでは?」と思っていたが、これはよっぽど強い風が吹かない限りは落ちないそうだ。



















「旧川端米穀店」(現在の町屋情報館)の礎石や柱・梁などの模型であるが、複雑な木組みとなっているのが分かる。



















町屋情報館の外観





「町屋情報館」のパンフレットより