2023年10月31日火曜日

ランチタイムコンサート

 ランチタイムコンサートが金沢市役所第二本庁舎で毎月第四金曜日にやっていることは前々から知っていて、いつかは行ってみたいと思いながら、ようやく行くことができた。十数年間に金沢駅前にある県立音楽堂で、ワンコイン(500円)でやっている時に、行ったことがあることを思い出した。今回は無料である。

























金沢市役所第二本庁舎は、従来の市役所の裏側に数年前に建てられた新しい建物である。外側の曲線の所は、ひがし茶屋街などにある「キムスコ」を連想させるデザインと日よけ機能を備えた格子状になっている。
金沢市の防災拠点として危機管理センターなどを充実させるために新たに建てられた。


















演奏開始20分前に着いたが、もう既に多くの人が来ていて座る場所もなかった。これを楽しみにしている人が多くいるのだなあと思った。


















曲名と演奏者のチラシ


































まず4人の演奏者と曲名の説明があった。


















ピアノとビオラの演奏から始まり、さわやかな音色で、さすがプロの演奏は違う。


















続いてボーカルの石川久美さんと近藤洋平さんが加わっやが、音量が素晴らしく一層華やかな演奏となった。二人のボーカルの人は有名で、私もクラシックはあまり聞かないが、名前だけは憶えている。


















街中で真昼に美しい音楽を聴くのもよいものだ。それにしてもお客さんは常連さんが多いと思うが多くのお客さんが集まり、静かに聴いて音楽を堪能していた。演奏前から約1時間くらい立ちっぱなしで結構疲れたが、良い気分になった。また機会があったら着たいと思う。

2023年10月27日金曜日

大聖寺 実性院

 「深田久弥の文化館」を見た後、まだ山中温泉に行くには時間が早かったので、以前行ったことがある「実性院」に寄った。境内の参道の先に「ぼけ封じ白寿観音」が立っていた。観音様のご慈悲を頂き、幸福な生活を願って建立されたという。秋の七草にも数えられる萩が見ごろで、可憐な花は古くから詩歌に多く詠まれている。

































ちょうどこの日は、陶芸家の高光一生しの花器と生け花が展示されていた。高光一生さんはあの洋画家の高光一也さんの長男だという。



















コーヒーカップなどが手のされていたが、これは「今久谷風窯」の作品で、九谷焼を創始した大聖寺藩前田家御用達釜として7,久谷のルーツ古九谷を現代化し、今の時代にあった作品作りの心掛けたという。武家が大切にした縁起にも心を配ったという。


















棚の中にも素晴らしい久谷焼の作品が並んでいた。


















歴代大聖寺藩主前田一族および殉職者を祀った位牌が安置されているのが御霊屋(おたまや)と称する位牌所がある。


















位牌所は雲形袖付五重座位牌で一体一体に重厚な蒔絵が施され、御霊屋内部を飾る障壁画とともに見事なものである。


















本堂の外陣・内陣


















その一角に一人の男の人が、琴の演奏の練習をもくもくとやっていた。後日、この寺で演奏会をやるのだろうか?


















ここの庭園は、築山池泉式の趣向をがとられ書院庭園らしく、明暗を表した空間構成となっており、四季折々の風情を楽しむことができるという。
































「金龍山 実性院」本堂の玄関


















十六羅漢堂


















座禅堂

十六羅漢堂、座禅堂や檀家さん、住職の墓を通って階段を上がると、ずらりと歴代の大聖寺藩主の墓が並んでいる。
































一番大きく、目立つ墓は初代大聖寺藩主前田利治の墓である。利治は加賀藩3代藩主前田利常の三男である。また、藩士の後藤才次郎を佐賀の有田焼の習得に派遣させ、後に九谷焼の生産に繋がったという。


















14代前田利鬯は、加賀藩13代藩主前田斉泰の7男として生まれ、江戸末期になった最後の大聖寺藩主で、特に能をよくたしなんだことで有名である。大正9年に亡くなっている。




































境内には「一里塚」と描かれた九谷焼の絵皿がはめ込まれた石碑があった。「参勤交代 出発の地」と刻まれている。

2023年10月20日金曜日

深田久弥の文化館

 小松天満宮(2)の続きで、加賀市大聖寺番場町にある「深田久弥の文化館」に行った。

深田久弥と言えば「百名山」であまりにも有名になっている。山の愛好家では百名山・二百名山などを目標にして山を登っている人も多くいる。



















この山の文化館の建物は、明治43年に建てられた絹織物工場「山長」の事務所・石蔵・門を改修したもので、平成14年に国の登録有形文化財になった。
事務所は木造2階建てで、外壁をイギリス下見板張りとした洋風建築となっている。
建物の前には樹齢650年というイチョウの巨木が立っている。














中に入ると深田久弥の略歴が貼られていた。



















深田久弥は、大聖寺中町で代々文房具屋を扱い、印刷業を行っていた深田弥一の長男として1903(明治36)年に生まれた。5歳で百人一首を全部覚えたそうで、1916(大正5)年に旧制の福井中学に入学した。この頃から加賀市内や福井県内の山に登り山の魅力にひかれていったという。



















1926(大正15)年に東京帝国大学文学部哲学科に入学し、友人らとともに「新思潮」を刊行して、作家としての道を歩き始めた。その後も素朴で抒情的な作品で次々に発表し、山岳に関する本も描いており、「呼ぶ冬山」などを執筆していた。


















昭和39年に発表した「日本百名山」は、登山家愛好家だけでなく、多くに人に愛読され、日本の山々の美しさを人々に再認識させる大きなきっかけになったという。
廊下には「日本百名山」の写真がずらりと展示されていた。


















深田久弥が選んだ「日本百名山」の地図が貼られていたが、久弥の百名山の選定基準として「品格、歴史、個性」を兼ね備え、原則1500m以上の山でかなり東日本に偏ったという。


















写真の下の棚には深田久弥が愛用していた「登山靴」であろうか?


















日本のみならずヒマラヤに戦前から思いを寄せていて、昭和27年にヒマラヤ研究を本格的にやり、諏訪多栄蔵の援助も受け「岳人」には「机上とヒマラヤ」を連載した。
下図は「エベレスト付近」の地図






































深田久弥は執筆の資料として膨大な内外の文献を所有していて、夫人の裁量で自宅の庭に作ったのが本小屋兼書斎が「房山山九」である。ここに置かれていた文献は当時日本一のものがあったという。
























いろいろなイベントも開かれる18畳の広い展示場からは庭園を眺めることができる。


















庭園を眺めながら、くつろぎ、談笑できる和室と茶房などが備えられている。


















二つの句碑が並べられていた。
「雪嶺に向ひて町を行きつくす 九山(きゅうさん)」
九山は、高浜虚子の門下生であった深田久弥の俳号である。句は、純白の白山に魅せられて歩いていたら、いつの間にか大聖寺の町はずれに来たというもの。
「白山を吊り上ぐるかや寒の月 宏」宏は、深田久弥山の文化館の館長高田宏さんで、句は、透き通るように晴れ渡った冬の夜、月光が白山を銀白に照らし、ぐいぐいと上がっていく月がまるで白山を釣り上げているように見えたというもの。


2023年10月14日土曜日

小松天満宮(2)

 小松天満宮(1)の続きで、さらに参道を歩くと、右奥に「神門」があり別称「赤門」と呼ばれる門がある。朱色の建造物は、社殿と同じくあの有名な山上善右衛門により造営された。

四脚門で切妻造、柿葺形銅板葺きで、江戸初期における唐様建築の代表的なものである。

昭和63年に重要文化財に指定されている。





















「小松天満宮誌」より













社殿前には、小松天満宮創建当時から現存するもので、石材は金沢の庭園などどもよく見かける坪野石である。利常公の時代から藩用として一般の採掘が禁止されたいた。

























三重や五重、七重の塔はあるが十五重の塔は珍しい。堅牢な坪野石を使い、均整と調和のとれた見事な石造技術は、後世に残すべき貴重なものであるという。







「小松天満宮誌」より
















小松天満宮は、小松市街の北部梯川の北岸に位置している。3代前田利常が隠居後に、寛永16年より万治元年までの19年間小松城に居住していた。そしてこの間に日ごろから崇拝している菅原道真公を創祀することとし、小松城鎮護も含め、明暦3年に創建された。
参道から十五の塔と社殿を望む


















本殿は三間二面の入母屋造りで、屋根銅板葺、拝殿は七間二面、屋根銅板葺、正面に千鳥破風、向拝は唐破風である。














































「献木」と描かれた案内板を見ると18代当主前田利祐氏が、白梅を菅原道真公1100年大万燈祭斉行を記念して献木したものである。


















ここに能舞台があったが、2代利長公が小松住の諸橋太夫と波吉太夫に命じて市人を城中に入れての町民能を催した。3代利常公も町民能を斎行した。諸橋太夫と波吉太夫はその後、代々加賀藩能役を務めた。明治維新後に金沢に残されていた波吉太夫家の能舞台は、小松の能楽愛好家により、ここに移築されたという。


















天満宮に響く謡曲の声はまた趣があるだろう。




「小松天満宮誌」より













学問の神様の菅原道真公が祀られている小松天満宮は、やはり合格祈願などの絵馬が多くかかっていた。


















梅鉢紋とこの石造は何だろうか?