2016年5月30日月曜日

金沢の農業に尽くした人々(1) ふるさと偉人館

今回は、本多町の「ふるさと偉人館」で「金沢の農業に尽くした人々」というテーマで展示され、また、この日は展示資料の解説やエピソードなどが聞けるということで行ってきた。














































ここの学芸員の増山さんが説明してくれた。
まず、日本初の耕地整理を実施した「高多久兵衛」について話があった。
明治維新後、世の中が変わったが、農村の風景はあまり変わらず、あぜ道はくねくねと曲がり、田は大きさも形もばらばらで、用水や排水も十分でなかった。明治政府が「田区改正(耕地整理)を命じ、これを、ときの石川県令(知事)であった「岩村高俊」が何としてもやりたいということで、当初、野々市村で試験的にやったのがうまくいき、安原地区の地主である「高多久兵衛」に依頼した。
依頼を受けて、村人に説得したが、先祖から受け継いできた田を変更することなどの問題で、簡単に同意を得られなかったが、収穫減少の場合は久兵衛が負担するなどの4か条の条件を付けて実施されたという。




















田区改正の結果、2901枚あった田が1572枚に減ったが、田の面積は2.6ヘクタール広くなった。久兵衛が行った田区改正は田と田の間に用水を造り、川上に「アテエ」という水の取り入れ口を、川下に「ヲチエ」という排水口を造ることで、田に均等に水が入り、よどみなく排水ができるというものである。この方式は「石川方式」と呼ばれ、耕地整理の方法として全国に奨励されたという。
久兵衛の工事の前と後の図を見ると、細かく、乱雑にめぐらされていた田が、整然とすっきりした田に変わったのが一目でわかる。これが3か月の短時間で終えたことは驚きだ。


























「書」で有名な「北方心泉」が書いたという「高多久兵衛」の功績と肖像画の掛け軸展示されてた。


























続いて、松本佐一郎が生まれた打木町は、金沢市の西部の海岸近くで、水田は少なく砂地が広がっている地区である。以前から栽培していた桑畑が害虫により全滅したしまった。そこで「天候や害虫に左右されない新しい作物を探そう」としていた。そのころ、愛知県の井上源助という人が作った「ゲンスケダイコン」は、柔らかく、味が良い大根だという話を聞きつけて、井上源助を訪ね栽培方法とともに種を分けてもらった。しかし、畑にまいたが立派に育たなかった。というのも愛知県は山土、打木は砂地で気候も違っていた。そこで、佐一郎は自分の土地にあった新しい大根の品種改良をし、砂地にあった「打木源助大根」が完成するのに20年かかったという。


























肉質の柔らかい「源助大根」は「金沢おでん」の具として人気がある。




















また、佐一郎は「会津赤皮甘栗南瓜」から「打木赤皮甘栗南瓜」、奈良のスイカから甘みの強い「縞王」、金沢のツルマメから「マツモトツルナシ」などを砂地に適した作物に品種改良したという。このことから佐一郎は「砂丘農業の父」として尊敬されているという。現在でも打木地区は野菜栽培で有名である。




















「打木赤皮甘栗南瓜」は、和食だけでなく、最近はポタージュスープなど洋食の食材としても人気がある。




















「加賀つるまめ」は正式には「フジマメ」といい、中部や関西地方を中心に栽培されている。煮物や「ごま和え」などで食べる。食物繊維を含んでいる。




















2016年5月26日木曜日

旧園邸 松向庵

今回は、西町の尾崎神社に向かう通りの左側にある、「旧園邸 松向庵」に行ってきた。
外観は、長屋門を思わせる門と塀が端正な趣を醸し出している。




















玄関は、前庭に石塔などがある趣のある近代和風住宅である。私の子供のころには、よくこのような家の玄関を見かけたものだ。そして、最近の私の小学校の同窓会で聞いたが、ここの家に住んでいたという同級生もいた。
ここは、1921(大正10年ごろに羽二重商の本郷長次郎が茶道に通じおり、邸宅を建てる際に各部屋が茶事に使えるように、露地ともども茶道表千家家元の指導を受けて作られた。大正から昭和のはじめにかけては、月例の窯がかけられていたといわれている。
その後は、この建物は園西四郎氏が取得、氏の亡き後は時子夫人の住まいとしていたが、夫人の死後、その道志により平成4年10月、金沢市に寄贈され、平成6年に金沢市指定文化財に指定されたという。




















玄関の左手の渡り廊下、土間の奥に土蔵が見える。




















10畳の座敷と7.5畳の仏間がつながっており、最近はここで茶会が開かれるという。




















その間にある簾欄間




















仏間から見える中庭、縁の廊下には風流な手摺がついている。








































座敷の横にある水屋は、茶会の時に使われる。




















玄関横にある座敷




















そこから見える庭には、石灯篭や手水鉢などが置いてある。




















座敷から庭を見る前に土縁があるが、その上には長い庇が付いていて、その庇に明かり採りのためか障子が付いていた。




















本来の茶室「松向庵」は三畳の狭い部屋であり、裏には「躙り口」もある。今は利用できない。




















座敷が3つあり、庭も「前庭」、「中庭」を含めると4つもある、「茶室」をもった大きな住宅ですばらしいものを見た。

2016年5月22日日曜日

東西別院付近(3)東別院

東西別院付近(2)の続きで、その後、横安江町にある「東別院」にいった。ここの1962(昭和37)年の火事は私にとっても衝撃的だった。このことは以前にこのブログでも紹介している。
http://kanazawa-burari.blogspot.jp/2013/02/blog-post_13.html
今の本堂は昭和50年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。江戸時代に建てられている西別院と外観の雰囲気が随分違う。




















今日は、中に自由に入ることができたので、本堂の中にはいり、丁寧にお参りした。中央に「阿弥陀如来像」左に「親鸞聖人」、右に「蓮如上人」が安置されており、そのほか「聖徳太子」などの絵も飾られていた。




















ここで住職から、東西に分かれた本願寺の話を聞いた。
戦国時代に織田信長が本願寺と戦った「石山合戦」で12年間も戦ったが、攻めきれず1580(天正8)年に本願寺と和解する。しかし、講和を不満とする本願寺派ができ、二つに分かれた。
豊臣秀吉から寄進された浄土真宗本願寺の本山(西本願寺)に12代教如がなったが、秀吉より弟の准如に宗主を譲らされた。その後、教如は家康より京都烏丸6条の地に寄進され東本願寺(大谷派)を建てた。これにより東西の本願寺ができた。すなわち戦国時代の三人の天下人として有名な信長、秀吉、家康が関係していたわけだ。
加賀、能登には大谷派が900ケ寺、本願寺派が100ヶ寺あり、断然大谷派が多い。石川県はそれだけ強硬派が多いということか?




















境内にある梵鐘




















山門は、かなり古そうなので大火の時には焼けなかったようだ。平成22年に行われた「宗祖親鸞聖人の750回忌の法要」の立札が未だにかかっていたが、よっぽど大きな行事だったのだろう。




















山門の左横には「北陸巡礼」をし、布教に努めた「蓮如さん」の石像があった。金沢市内のいくつかにこの石像がある。




















久しぶりに「横安江町商店街」に来たが、新幹線開通により金沢駅に近いこともあってか、3年前より少し活気が出てきたようで、新しい店や改装した店もあるようだ。日曜日には「朝市」も開かれている。




















昔からある「うどん屋の加登長」や「ユアサ金物店」も頑張っている。









































2016年5月18日水曜日

兼六園開園記念日(3) 新緑の園内の風景

兼六園開園記念日(2)の続きで、内橋亭と夕顔亭を見た後、園内を回った。
ことじ灯篭付近は相変わらず写真を撮る人などでごった返していた。




















「虎石」付近のベンチから見た「霞が池」、「蓬莱島」
この日は、今にも雨が降りそうなどんよりした空だった。




















曲水には見ごろとなった紫の「カキツバタ」が咲いていた。




















「三好庵」横に咲いていた「藤棚」も見ごろだ。




















金沢神社の横にある「放生池」付近に咲いていたキショウブ




















梅林の梅の木には、同じ色していてよく見ないとわからないが、大きな丸い実がなっていた。




















新緑がきれいな蓮池庭の「瓢池」、「翠滝」、「海石塔」




















「海石塔」の横に鯉を狙っているのか、サギ(?)が池をのぞき込んでいた。



2016年5月15日日曜日

兼六園開園記念日(2) 内橋亭 夕顔亭

兼六園開園記念日(1)の続きで、茶会が終わって、内橋亭の周りを見た。
入口の手前右側に大きな、高さが2mもある寄石灯篭がある。笠とその上にある宝珠、請花には苔むしていて非常に大きい。火袋は赤戸室石で、1m近い竿の部分は虫食い石が使われている。




















内橋亭の玄関前にある、茶会に参加している人たちが置いた苗木が周りにある手水鉢がある。この手水鉢に彫られた5本の棒の形状は、全て5本の棒状であるがそれぞれ形が違う組み合わせの模様で面白い。




















玄関の左側に高さ1.6mの春日灯篭と玄関横にある6畳の部屋がある古い建物があるが、これは昭和40年の改築以前のものか?




















内橋亭の傍らの池端にある「菩提樹」と「ヤマモモ」の古木があり、添景となっている。その横は「親不知」に繋がっている。


























続いて、瓢池にある「夕顔亭」を見に行った。ここの前には、今日(5月7日)の「兼六園開園記念日」を大きく描いた看板が掲げられていた。今日だけは「夕顔亭」前の柵が除かれ茶室の中を見ることができる。


























ここにある「夕顔亭」は、1774(安永3)年に11代藩主前田治脩によって建てられ、蓮池庭にあった4亭の1つで、当時の姿をそのまま残している唯一のものである。そのたたずまいは詫びた茅葺の草庵の趣であり、大名茶室で躙り口がない。





















この茶室は千利休の高弟・古田織部好みの3畳台目、下座床、相伴畳付きで、小間でありながら、本格的な茶の湯を催せるようになっている。
茶室は通常、外景と遮断して閉ざされている空間であるが、ここは滝や池庭を眺め、滝の音に耳を傾けて楽しむという趣向となっている。作庭当時は「滝見之御亭」、「中嶋之茶屋」とも呼ばれていたという。
壁は赤っぽい色で淡いピンク、濃いピンクや淡いオレンジ色となっていた。床の間にはすばらしい書のの掛け軸が掛かっていた。




















回り縁がある前のほうには庇が深く出ていて、木組みが細かくなされていた。




















右手の方には、障子を開き、竹を縦に並べた窓の連子窓からは滝が見え、音も聞こえるようになっている。また外壁の下方には壁土を塗り残して下地の竹材を見せた窓が2つあった。これらは格子越しにあわい光を取り込み薄明り状態を作り出し、厚い土壁でおおわれた茶室を趣のある空間を演出するという。




















この反対側に回ると、4畳半の次の間と奥に水屋の部屋があるが、手前の赤い壁に夕顔の透かし彫りがあった。このことから「夕顔亭」と名前が付けられたという。私はこの透かし彫りを初めて見た。ここの前にいた係員は、透かし彫りの5つの瓢箪と瓢池と6つの瓢箪は「不老長寿」を表現していると言っていた。




















夕顔亭の周辺は露地となっていて、そこに藩政期の金工で有名な後藤程乗(ていじょう)が彫ったという「伯芽断琴」(はくがだんきん)という円柱形の黒い坪野石の手水鉢がある。台石の長方形の御影石との丸と角、黒と白の対比が見ごたえがある。間近で見たのは初めてである。
自らの琴の音を最も理解した友人の死を嘆き、一生琴を奏でないことを誓った名手伯芽の姿が浮き彫りにされているという。




















露地の中央付近にシイの古木があって、樹下に井筒型手水鉢が置かれている。とうとうと水が湧き出る様子からは風流な味わいが感じられる。