昨年6月から7月にかけて2回にわたって仲間3人と、江戸時代末期に13代加賀藩主斉泰が、国防のために行った「能登巡見」コースのうちの何か所かを巡ったので紹介する。
1858(嘉永6)年4月4日に13代加賀藩主前田斉泰は、江戸への参勤交代程ではないがなんと700人余りの供を連れて、能登一巡の旅に出た。外浦を経て、内浦から崎山半島を回り、石動山を超えて25日に帰城した。
巡見は22日間、延べ行程が480kmで、歴代藩主で能登を一巡したのは斉泰だけである。終始ご機嫌だったという斉泰は42歳だったという。
下図は当時描かれた行程図の一部
当時、開国を迫る諸外国の動きに幕府は神経をとがらせていた。広い海岸域を領する加賀藩でも。異国船の騒ぎがたびたび起きた。そのような時代背景に中で、海防に関わる沿岸視察を目的に、藩主自らが巡見出でた。主な視察対象はお台場や御蔵(藩米の収納蔵)、武器御蔵や港などである。
下図は当時の外国船を描いたもの
巡見の御触れ(通達)には、「受け入れ施設や通行の道路も普段のままでよい。下々に迷惑のかからないように」という内容が記されたが、藩主と多数の随行人の受け入れには、道普請や家屋の改築改装など、様々な形で地元の負担がともなったという。しかし、住民にとっては藩主の能登来訪は前代未聞のことであり、嬉しい反面緊張する複雑な思いで迎えたことであろう。
下図は当時のまま残る巡見路で、輪島市深海町に残る旧道
15年後には明治維新を迎える幕末期に行われた藩主の能登巡見は、混乱もなく終わったが、この巡見で特筆されることは、海防視察以上に藩主が興味を持ったのは、能登各地の風物・産物・人々の暮らしを実際に見て歩いたことである。事前に通達していたこともあり、各々の場所から産物などが献上されるなど、22日間の旅先でのエピソードは語りつくせないほどあるという。
下図は当時の献上品が描かれたもの
珠洲市正院町の須受八幡宮の能舞台で、ここでこよなく能を愛した斉泰は百姓能を上覧した。竹生島と狂言「禰宜山伏」を楽しんだと伝えられている。
また、藩主は歓迎に出た能登の人々に優しい気遣いを見せたという。そして4種類の漁法視察や各地の海岸線の景勝地や滝などの探勝、別所岳や石動山の登山、さらにキリシマツツジや農村で働く人々の鑑賞など、初めての能登を興味深く見て回った。
ノトキリシマツツジ(2003年の新聞記事から)
巡見を終えた1か月半後に、浦賀沖に黒船が来航し、以後は加賀藩も維新の波にのみ込まれていった。
巡見の成果はよくわからないが、改良された道路は住民や旅人の往来に貢献したし、さらに藩主自らが巡ったことで、日ごろは生活苦にあえぐ領民達の感情も和らいだのではという。
とにかく表向きには海防視察であったが、斉泰には他に別の思いがあったのではと思われるほど楽しい巡見であったと推測する。
後日のブログには、私たち仲間と巡った5か所(宇出津、上時国家、喜夛家(十村役)、岡部家(十村役)、石動山)を紹介していく。