永光寺(2)の続きで、その後、和倉温泉でゆっくり温泉につかった後、翌日温泉周辺を散歩した後、皆と別れ「田鶴浜駅」近くにある 長家菩提寺「東嶺寺」に行った。
ここは当初は実相院と称していたが、1577(天正8)年に七尾城主畠山家の重臣長通連の夫人(長連龍の生母)を弔ったことから花渓寺と改めた。以来長氏のの菩提寺として保護され1580(天正8)年に七尾城下から現在地に境内を移し堂宇を建立した。
長氏は当地の国人領主で能登国守護職を担った畠山家の重臣として大きな影響力を持っていた。1577年(天正5)年に七尾城が落城すると長綱連など多くの一族が戦死したが、残された連龍などが織田家に仕え能登・越中奪還に尽力したことで能登半郡3万1千石が与えられた。
1582(天正10)年に織田信長が自刃すると前田利家の与力として地位を確立し、江戸時代以降は加賀八家と呼ばれる大身となり3万3千石わ拝領した。
本堂、山門、境内左側の丘陵地にある長家墓所があり、前方と横側には堀(現在用水)を巡らし、丘陵地に見張り台を設け城郭風の構えが見られる。また改築の折に尾張から指物師を呼び、戸障子、欄間の製作にあたらせた。その当時の築(?)欄間などがあり、田鶴浜建具の発祥の寺だという。
山門は古めかしい立派なもので、江戸中期の1747(延享4)年に建立されたもので、上層部に高欄が設けられ、下層部左右には仁王像が安置されている。
本堂は江戸初期の1651(慶安4)年に建立されたもので、木造平屋建てで入母屋、桟瓦葺き、唐破風玄関屋根である。内部の内陣には本尊である釈迦如来像が安置されている。
「小丸山城下のイメージ図と遊歩道の解説の案内板があった。「瞑想の道」と名付けられ16に寺院が集められている。
その中で前田利家に最も縁が深い「長齢寺」に入った。ここは利家が石川・富山県で一番先の建てた菩提寺である。
1575(天正3)年に利家は、越前府中に3万3千石が与えられ、同地の高瀬の宝円寺第七世大透圭徐禅師に帰依せられ、同寺を菩提地として、父、休嶽公 母、長齢夫人の供養塔を築き、命日には必ず参拝されたという。1581(天正9)年には、能州23万石に封ぜられ、七尾に至る。まず大透圭徐禅師を講じ、1寺を建立し父母の位牌を安置する。これを宝円寺と号し、お墓も建立した。
また、重要文化財や県・市指定有形文化財として絹本着色画像として「前田利春」、「長齢夫人」、「前田利家」、「前田利長」、「前田利政」などが展示されていた。(カメラ禁止)
「パンフレット」より