2021年5月1日土曜日

永光寺(2)

 永光寺(1)の続きで、「鐘楼」から伸びた階段を右に折れると「伝燈院」がある。ここは一般公開されていない。ここには曹洞宗の法燈を伝える五大祖師を中心に開山し哲像を奉祀している他には類例がない独自の形式の開山堂である。祀堂は寺伝では1579(天正7)年の兵火で唯一残った建造物だという。

「伝燈院」を参拝するには手前に吊るしてある梵鐘を一打してから入堂するという決まりがある。





「パンフレット」より













「伝燈院」のさらに奥の山上に行くと霊場「五条峯」がある。ここには高祖天童如浄禅師・二祖永平道元禅師・三祖弧運禅師・四祖徹通義介禅師・五祖瑩山紹瑾禅師の遺品が収められているという。



「パンフレット」より




  




道元禅師示寂のあと、数代を経て日本全国に広まった曹洞宗の布教活動の拠点となったのは、現在の石川県羽咋市の永光寺であり、輪島市の總持寺であった。いずれも曹洞宗の太祖と祀られている瑩山紹瑾禅師の開創による。この二つの寺院がなければ、今日の曹洞宗は巨大な教団になり得なかったという。

ひたすら座禅に打ち込み「只管多坐」を通して、その姿が悟りの境地だと唱えた道元禅師が自ら厳しい修行の中に身を置いた高潔の宗教家だったのに対し、瑩山禅師は道元禅師の教えを下級武士や商人、農民などの一般階級に広げることによって、曹洞宗の組織を確立し、教団を不動のものにした。とりわけ永光寺は、永平寺で修業した瑩山禅師が加賀の大乗寺から移り、總持寺を開く前に開創した寺院として知られ、曹洞宗が組織的な教団として発祥した原点ともいうべき聖地であるという。
















各建物が中庭を囲むようにして回廊で結ばれている。これは永光寺伽藍方式と呼ばれ、曹洞宗伽藍構成の一典型になっているという。





「パンフレット」より







本堂の右側には「書院と庫裏」の建物がある。この建物の脇から参拝料を払って中に入った。




















本堂は広々とした畳敷きで、他のお寺でよく見かける三か所のブロックに分かれている。丁寧にお参りした後、ゆっくり見させていただいた。



















中央にはお釈迦さん入滅の時期に合わせてか、黄金のお釈迦さんが横たえている煌びやかな「紙本著色涅槃絵図」が掲げられていた。江戸前期に宮腰の旦那衆より寄進されたものだという立派なものだ。



















左側には「十六羅漢座像」が祀られている。



















その横に「釈迦と十大弟子」岩田崇作が掲げられていた。



















左側には、明治期に永光寺再建に尽力した山岡鉄舟画像や鉄舟筆襖書などがある。



















「幕末の三船」の一人で書の達人でもある「山岡鉄舟」は、剣術の達人でもあり、1868(慶応4)年に西郷隆盛と駿府城で会見し、徳川家の安泰と江戸城無血開城を約束し江戸庶民から喝さいを受けた。維新後に岩倉具視、西郷隆盛に請われ明治5年から明治天皇の侍従を10年間務めた。その当時永光寺は多額の謝金を抱え堂塔伽藍は朽ち果てて荒廃を極めていた。6年に孤峯白厳し和尚住持となり勅願道場の由緒を説き揮毫を依頼した。明治19年額と軸・一万枚の寄進を受け再建費用に充て復興事業を成し遂げることができた恩人である。明治21年53歳を1期として座禅のまま大往生を遂げたという。

























書院の床の間の掛け軸や違い棚に置かれた置物



















山岡鉄舟の書と当時使った大筆が134年ぶりに永光寺に戻り、展示されていたことを新聞に掲載されていた。