2020年3月13日金曜日

石引界隈(1)二十人坂、欠原菅原神社

今回は、石引界隈のお寺がいくつか集まっているところを行こうと思い、まず「二十人坂」を上った。ここは藩政時代、足軽二十人組が住んでいたことから名付けられた坂である。足軽屋敷は二十組とか五十人組などが多いが、ここは二十人組の足軽鉄砲隊が住んでいた所という。この通りはフラットバスが通る坂で、ずっと上がっていくと小立野大通りに出る。またこの辺りは桜のきれいなところである。



















二十人坂にある「一本松陸橋」の下には川は流れず、地域住人の生活道路が立体交差している。また、その下にある「揚地町陸橋」も同じである。藩政期からの道の上側に交差するように、戦前に「軍用道路」として「二十人坂」が小立野台地と寺町台地にあった「野村練兵所」を結ぶための道路として造られたために、このようになったらしい。



















「揚地町陸橋」と「勘太郎橋」が見える。



















「一本松陸橋」をくぐった向こう側に「旧一本松」の碑があり「もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる」とあった。
























この坂の近くに「勘太郎川」が流れているが、この川は笠舞1丁目辺りにある湧き水の「大清水」を水源として、いくつもの辰巳用水の分水が合流されて、この辺りを流れている。
ここは、辰巳用水の「石引門」から流れてくる分水が「勘太郎川」に合流している所である。
























「二十人坂」の下には、アーチ形のトンネルもあり「勘太郎川」が流れている。




















この辺りは、坂道でなおかつ曲がりくねっていて、いつも通らない人は、非常に分かりにくい道である。



















 この迷い道の途中に町家の白い暖簾に「二十人坂針灸院」と描かれた店があった。



















曲がりくねった道を上がると、朱色がまぶしい鳥居のある「欠原菅原神社」があった。ここは、鷹匠町に住む藩士津田家(1300石)の邸内社であったものを明治13年に東照宮(尾崎神社)の神職高村勝久が移したものだという。そして2018年に崖崩れにより現在地に移されたばかりだ。




























普段は閉まっているが、ちょうどこの日に、神社の関係者が用事で中にいたので、入ることができた。
まだ木の匂いが残る新しい本殿は井波彫刻、銅板は高岡銅器という小さいが立派なものである。祭神は菅原道真、金毘羅神である。
























そのすぐ近くに横道が走っていて、立派な石垣があり、その上にはお寺が集まっている所だ。