2020年3月27日金曜日

石引界隈(4)真行寺 慶恩寺

石引界隈(3)棟岳寺の続きで、続いて「真行寺」へ行った。ここは、1631(寛永8年)に本多家老篠井雅楽助は、豊臣方の武将木村重成の娘(当寺開基州岩太益和尚)が重成の菩提を弔うため、現本多町に庵を開き、当時大乗寺十五世謙室吞益大和尚に拝請し、開山一世とし、加賀藩3代利常に現在地石引(旧二十人町)に替地し、法隆山真行寺(曹洞宗)として現在に至る。



















寺宝に前田家武人画家、矢田四如軒筆の絵画、六地蔵尊画像中軸(二幅)を所蔵する。
















真行寺の横には保育園があり、そこの保育さんに頼んで「地蔵堂」を開けていただいた。




























藩政時代刑場に引かれる罪人が一本松の橋西詰に立つ地蔵に顔を向け、それを悼んで遺族が横向きの地蔵を造り橋詰めに安置したという。明治41年に他の地蔵2体とともにここに合祀したという。
























他に厄除け地蔵尊や地域各所の地蔵尊が安置されていて、毎年8月22日に大祭を行っている。



















「真行寺」のすぐ近くにある「慶恩寺」は、1491(永徳3)年の創建と伝えられている。僧慶心は金沢御堂の建立にともない本願寺の命を受け御堂衆を務めた。その後越中から飛騨を布教し、90歳で飛騨白川村加須良の示寂した。木の新保から犀川河原町を経て1658(万治元)年に当地に移った。今日のテレビの地元のニュースで、ここの桜が見事に咲いている映像が写っていた。
























また、「慶恩寺」の前にある「円證寺」は、お寺の前に赤戸室石で作られた「戸室山円證寺」と掘られた石造がある真宗大谷派のお寺である。永正元年(1504)藤原重之が出家し、貞珊と名乗って一宇を建立し、円證寺と称した。藤原重之は戦いに負け、河北郡戸室新保村に隠れ住んでいたが、山号はその地名に由来する。
1650(慶安3)年に火災により現在地に移転した。
1687(貞享4)年に木仏(阿弥陀如来)の許状が本山からおり、寺の創建となったという。