2020年3月23日月曜日

石引界隈(3)棟岳寺

石引界隈(1)で、「旧欠原町」から「旧鷹匠町」の上り先に「棟岳寺」がある。入口に「棟岳寺」の木柱と大きな木がある。
ここは、明応元年(1492)、越前南条郡領主・赤座長秋が父母機供養のために建立した。慶安2年(1619)三代利常より寺地を拝領した。
























坂東三十三か所の第二番札所である。



















また、三十三観音 の四番札所で、本尊が釈迦如来坐像、観音様として千手観世音菩薩を祀っている。



















その向かいにある「水府義勇塚」は、1864(元治元)年に起きた水戸尊皇攘夷派志士による「天狗党の乱」で幕府側に処刑された水戸浪士、武田耕雲斎らの慰霊碑で、明治5年(1872)に永原甚之助が自費で建立した。
























その隣にある墓の「永原甚之助」は「天狗党の乱」で官軍として功を成す。幕府に乱の首謀者などに対し穏便な処置を求めたことで有名である。






















「子安地蔵尊」は、かふ座で子供を抱いた珍しい地蔵尊で、中国から伝来したものと古いものといわれる。石像に漆喰を施し白塗りされたもので、顔には加飾のあとがある。由来は安産祈願と子供の無病息災を願うという。  
























堂内の六地蔵は、それぞれ手に巡錫、宝珠、蓮を持ち、連座に立っている。正徳5年~宝暦6年の紀年銘を刻むが、縁起由来などは不明である。



















吉田長淑(1779~1824)は加賀藩が江戸で登用した我が国初の蘭方内科医である。文政7年に金沢で麻疹を発症した12代藩主斉広の治療のために、金沢へ急行したが、無理と過労が重なり、到着後まもなく死亡したという。
























江間氏はもともと越前朝倉氏の家臣井上三左衛門の子江間隼人から始まる。隼人の子竹林坊が前田利家に仕え、竹林坊の子口安が歯科医となった。墓は口安の弟の系譜を引き、藩主の御典医となったという。
























赤座吉家は始め織田信長に仕えて越前南条郡領主となった。慶長5年の関ケ原の戦いの後に領地を失うが、子の孝治が2代藩主利長に仕え、禄7000石を賜る。利常の時に永原と改称した。
























このお寺の境内は広く、いろいろな石造物や有名人のお墓が多くある。現在はかなりの部分が駐車場になっているが、奥の高台からは寺町方向の町並みがきれいに見える所だ。