2023年3月6日月曜日

13代藩主の能登巡見巡り(6)喜多家①

 13代藩主の能登巡見巡り(5)の続きで、昨年の6月に宇出津、上時国家を巡ったが、7月には「喜夛家」、「岡部家」、「石動山」を巡ったので紹介する。

13代藩主斉泰は、能登巡見巡り25日間の24日目に「川尻村」今の「宝達志水町」にある「喜多家」に宿泊している。

























午前8時に仲間と合流して金沢から車で30~40分で「喜夛家」に着いた。奥能登の宇出津、上時国家に比べて随分近い。


















「喜夛家」は、清和天皇より発し鎌倉幕府討伐に向かった新田義貞を後裔と伝わる旧家で、戦国時代は能登国守護職の畠山家に仕え、1638(寛永15)年に北川尻に居を構え土着して、武士を捨て姓を喜多に改め帰農したという。
日々をお送りにしたがい、農民の信頼を得、加賀藩独自の「十村役」という政治機構の一端を担うことになったという。義貞公より23代目の喜夛市十郎吉義真実が十村役を仰せつかり3代にわたり口能登を一手に治め千石船といわれる北前船を8隻をも動かし、十村役の筆頭として栄を納めたものである。現当主は義貞公より28代目となる。


















この「十村役門」は、喜夛家の元祖新田四郎兵衛義勝が越前椿阪出陣の功労により拝領した加賀藩守護職富樫家ゆかりの建物と言われている長屋門である。茅葺の屋根で、右側に馬小屋と馬洗い場、左側に番屋すなわち見張り役がいた。

































この長屋門の中に入ると、大きな主屋が見える。1718(享保3)年に再建されたもので切妻造瓦葺平屋建てで、正面には格式を違えた4か所の入口をもち、荘重さと当時の威厳を兼ね備えている。


















屋根の天辺には、新田義貞家に伝わる「丸に一つ引き」の家紋が付いている。















下図は主屋の平面図で、部屋数は15、建坪170坪ある。内部には「大式台」の奥に「式台の間」、さらに奥に「謁見の間」の座敷が三つ並んでいる。中央の「本座敷」の前に「広間」を備え、右側の玄関の奥に「溜まりの間」、「勝手の間」、「台所」などがある。

















下図は喜夛家の配置図で、敷地面積は約7,600坪で鬱蒼とした森の中に住居があり、表門や主屋がある住居部分は、周囲より2m低くして区別している。喜夛家の重要文化財の建物は、表門、主屋、道具倉、味噌倉と4つある。




主屋の前面にある「大式台」が見える。ここは藩主専用の玄関で、式台は2間半の広さがあ り、駕籠が横づけになる大きさがある。13代藩主斉泰が宿泊されたときは、ここから入ったのであろう。