堀川町界隈(1)の続きで、その後、JR線と大通りの交わった近くにある「久昌寺」に行った。山門横に「久昌禅寺」の門柱は、故中川一政画伯が松戸家の菩提を弔うために揮毫したものだという。反対横には「不容葷酒入界〇」の標柱が置かれていた。大乗寺前に置かれていた標柱と同じ意味だろう。
山門をくぐると、玄関は白い金属で覆われた唐破風の屋根の本堂がある。
この寺は、慶長15年(1610)加賀藩主2代目、前田利長公夫人、玉泉院(本名、永)が自分の義母と織田信長公、久庵桂昌大禅定尼の菩提をこの加賀の国で弔う為にと願って、信長の子孫である僧、明巌誉傅和尚に頼み、夫人自ら建設資金を出し建立にいたりました。 そこで久庵桂昌大禅定尼の戒名の「久」と「昌」を頂き、「久昌寺」の寺号とされました。(HPより)
本堂の右脇間に、曹洞宗の開祖、道元大師の尊像とその周りに三十三体の観音様が安置されている。この道元大師、観音様に「縁が結ばれるように・・」と、(さるこ)に自分の名前と相手の名前を書いて抱き合わせ、紅白の糸で結びこれを奉納すると良縁に恵まれるという。
「パンフレット」より
その隣には、「歯痛治し地蔵さん」が置かれていた。
この観音様は、太平洋戦争中、中国河北省方面に参戦した第百九連隊の戦友有志により、英霊を弔うとともに、世界平和を願い建立された。「山吹」とは砲兵の襟章の色である。
この墓地の一角には、加賀の刀鍛冶、「辻村兼若」、「松戸勝国」など「松国家」の墓が並んでいる。
「辻村兼若」の墓で、兼若の初代は美濃出身で、2代が藩主利長に招かれた。刃文の名工として加賀新刀を確立し、「加賀正宗」と称された。代表作は「越中守藤原高平」(県指定文化財)がある。
この寺に刀工の墓地が集まっているのは、刀鍛冶職人が近くの旧鍛冶町に多く住んでいるからであろうか?