宗林寺(1) 戦犯遺品展示の続きで、今回は「花山信勝」博士について調べたので紹介する。この人は、太平洋戦争の戦犯の教戒師として、日本の長い歴史においても類のないすごい経験をした人である。そして私の卒業した小学校の大先輩でもある人で、小学校の「校歌」の作詞者でもある。
私自身太平洋戦争敗戦後のことは、今まであまり学んでいなかったが、上記の書籍などを読んでかなり興味を持つようになり、「マッカーサー元帥」、「東京裁判」、「A級戦犯」、「巣鴨プリズン」などをより知るようになった。
「マッカーサー元帥」は、敗戦国・日本を占領統治するための最高司令官で、来日初命令は東条英機の逮捕だったという。そしてその他の戦犯容疑者のリスト作成と犯罪人に対しての厳重な処罰を決めることであったという。東条英機は、元陸軍大将であるとともに太平洋戦争開戦時の首相でもあったことから戦犯容疑者の第一号となった。
花山信勝(はなやま しんしょう)の略歴は、浄土真宗本願寺派宗林寺第12代住職、東京大学名誉教授(日本仏教史専攻)。1898(明治31)年、金沢市生まれ。聖徳太子の「三経義疏」の研究をライフワークとし、1934(昭和9)年「法華義疏の研究」で帝国学士院恩賜賞を受賞。1946(昭和21)年から東京巣鴨拘置所の教戒師として東条英機元大将らA級戦犯7人の戦争責任者をはじめB・C級戦犯と合わせて34人の処刑に立ち会う。東大退官後、1959(昭和34)年から浄土真宗本願寺派の北米・カナダ開教総長として10年間アメリカに滞在した。
花山信勝が巣鴨プリズンの教戒師となったきっかけは、それまで聖徳太子の仏教を中心とした「日本仏教」の学者であった。昭和21年2月にある仏教本の執筆が終わった後に、西本願寺の東京教学研究所の先輩から「戦争責任者が収容されている巣鴨プリズンで、政府が仏教の教戒師を探している」ということを知り、「一緒に役に立とう」と申し出たが、「一人だけでよい」ということになり、花山信勝がだけとなった。採用の条件は(1)英語が話せること、(2)特定の宗派に偏らないこと、(3)年齢が若いことの3点だったという。当時、信勝は東京帝国大学の助教授で「日本仏教」の講座を担当し、47歳であった。
そして巣鴨プリズンに入り、死ななければならない境遇に置かれた27人の青年たちと接することになった。その中には特攻隊に志願した人もいれば、たびたび弾丸雨下の死線を超えてきた人たちもある。身命を捧げて一途に必勝をへと突進した当時と、勝敗によって平和を迎え、過ぎし日死に直面するの責任が問われ現在とは、その心境に大きな違いがあることを、彼らが認め告白したという。
その中で3番目に見送った「福原勲元大尉」は、「横浜裁判」で死刑の判決を受け、巣鴨プリズンの独房に監禁された。悶々と日々を送る中で、逃亡計画に失敗し、独房内で自殺しようとしたことがある。それが発見され未遂に終わってから、見違えるような立派な人物になってくれたという。死の最後の瞬間まで、仏書を読み、遺書を書き、朝は太陽の上るときに起き、夜は電灯が消されるまで、命ぜられた掃除やペンキ塗り」作業を他人より早く終わらせ、その余暇を読書し、一日一度の独房前の廊下の散歩のときも、常に手から仏書を離さなかったという。彼は両親と花山氏のあてた遺書があり、「朝風になびくを見渡し彼の土より平和日本の日の丸の旗」の一首が描かれていた。
東条英機陸軍大将
この7人とは判決の後、花山信勝と頻繁に面談を繰り返し、当初はあまり興味を示さなかったが、人間として次第に深い信仰へと進み、「今日も1日生かせてもらった。ありがたい、南無阿弥陀仏」と感謝するようになったという。さらに最後の絞首刑の執行直前まで一緒にいてほしいと依頼され、最後まで付き合ったという。
巣鴨プリズンの処刑室入口
花山信勝の法話や面談によって、絞首台に上がった三十数名の人が、信仰によって死を恐れるよりも、むしろこれを喜び、大往生を遂げた人たちの遺書などが多く残されている。
花山信勝は教戒師としての仕事が終わった後、東大の教授に戻り、昭和24年にハワイ大学の要請により「第二回東西哲学者会議」に鈴木大拙とともの出席している。
また、東大定年後には西本願寺から北米・カナダ会教区仏教団開竅総長として10年間サンフランシスコに定住した。そして1995(平成7)年にオウム真理教の「地下鉄サリン」事件の当日に96歳で亡くなったなったという金沢の偉人である。