2020年5月4日月曜日

内灘巡り(5)小濱神社 内灘駅

内灘巡り(4)井上靖の文学碑 サンセットブリッジ内灘の続きで、その後、内灘町の大通りを「内灘駅」方向に行き、左側の小路を曲がると「小濱神社」がある。



















 4世紀ごろの大和朝廷にとって、日本海に突き出た能登半島は全国統一に向けて大陸文化を取り入れるうえで重要な場所だった。このため大和朝廷はこの辺りの勢力下に置くと、日本海に沿って北からの敵の侵略に備える拠点を設け、この内灘砂丘では、宇ノ気町大崎に海岸を守るかなめとして出雲日隅の神様を祀った。それが718(養老2)年に建立された小濱神社の起源とされる。



















その後も朝廷から大事にされたが、流動する砂丘や強い季節風の影響から場所を転々と替えており、1832(天保3)年加賀藩により本殿が造営され、現在地の内灘町大根布に遷座されたのは1890(明治23)年だという。藩祖前田利家も領国平定の祈願されたり、神社への寄進もあり前田家の信仰も厚かったことから、前田家の家紋である剣梅鉢紋が付けられた由緒ある神社である。



















境内には、摂社として「磯崎神社」があるが、創建の地の小濱磯崎の名前が付いている。



















境内の忠魂碑の前には馬に乗った武士の石像があった。
























続いて浅野川電鉄の終着駅の「内灘駅」に行った。私が学生時代までは、海水浴に行くときに、ここで降りて「内灘海岸」まで砂地をよく歩いたものだ。北陸鉄道の電車は現在では、この浅電と鶴来線だけになってしまった。



















 浅電は「内灘」から「金沢駅」まで13駅、17分と一駅一駅は非常に短い。内灘、粟崎の人にとっては貴重な交通手段である。しかしラッシュ時以外は本数が非常に少なく、内灘駅からバスに乗り換える人もいるが、このバスの便数も少ないので非常に時間がかかると嘆いていた人もいた。



















久しぶりに大野川に架かる浅電の鉄橋を見たが、なんとも懐かしい。高校時代くらいにこの辺りによく釣りに来たり、ボートの乗ったりして遊んだものだ。



















「内灘駅」近くに「平澤嘉太郎の碑」があるということで探したがなかなか見つからなく、2人の人に聞いてようやくたどりついたが、分かりにくい住宅地の狭い脇にあった。最初に聞いた男子高校生は「平澤嘉太郎」の名前すら知らなかった。近所の人にとっても80年以上も前の英雄のことは知らないはずだ。
























この碑は晩年を過ごした「羽衣荘」跡地に昭和33年に建立された。大きな石碑の横に平澤嘉太郎の思いが描かれた石板があった。「私は個人の別荘を持ちたいとは思わない。この日本の地に市民の別荘を建てるのが唯一の夢である」として、粟崎遊園の建設と浅野川電鉄の敷設を成し遂げたことは土地の産業交通文化の寄与に計り知れないとして嘉太郎の遺徳を偲んで地元の「向粟崎」の人達が建てたとあった。
























「内灘試射場」があったころには「内灘駅」から砂丘まで、軍用車を走らすためであろうか「鉄板道路」が敷かれていた。




「郷土内灘」より














今日の内灘砂丘に行くと人は見えなかったが、大型のサファリ―タイプの車が何台か走っていた。