2020年4月26日日曜日

内灘巡り(3)内灘砂丘の歴史 河北潟

内灘巡り(2)内灘闘争の続きで、さらに「内灘町歴史民俗資料館」内の展示品を見学した。ここにも「北前船」のジオラマがあった。18世紀後半になると、加賀藩は産物方を設けて領内の産業を奨励し、他藩との通商も活発になったので、一層北前船の活躍がめざましくなった。なかでも向粟崎の嶋崎徳兵衛や粟崎の木屋藤右衛門、宮腰の銭屋五兵衛は御用商人として藩財政と結びつき、18世紀後半から19世紀中ごろにかけて絶頂期を迎えた。



















内灘は、河北潟と日本海に挟まれた細長い砂丘地にできた町で、人々は古くから漁業に生活の糧としていた。そして広大な砂丘を利用した海での地曳網魚と刺網魚が行われていたが、生活が不安定なため、明治以降は日本各地を転々とめぐる沿岸出稼ぎ漁業の歴史だという。




























全国に誇る内灘町のイベントが「凧の祭典」で、従来はゴールデンウィークの5月4日にあったのが、ゴールデンウィーク後の土、日に開催する。南北に伸びる広大な砂浜と上空に吹く海風は凧あげに絶好のコンデションを持つ内灘海岸は、一度に数百もの凧が上がる風景は勇壮である。



















ところで、内灘は「砂丘の町」というイメージがある。内灘砂丘は日本では鳥取砂丘に次いで2番目の大きさだという。
日本の砂丘のほとんどは、海岸線に沿って形成された海岸砂丘で、海岸線に平行にいく列もの砂丘列が分布していて、その列の位置からそれぞれの砂丘が形成された当時の海岸線の位置が推定できる。ところが内灘には1列のしかないが、古い砂丘と新しい砂丘が累積した珍しい砂丘だという。



















2万年前の内灘町周辺の平均気温は7~8℃(現在の札幌市と同じ)で海水面は今よりも100m降下していた。次第に気温が上昇して、海岸線がほとんど現在の位置になったのは7000前のことで、古砂丘ができ、河北潟が誕生したのもこのころで、当時は入江だったという。縄文末期~弥生時代にかけての冷涼化によって海岸線が現在よりも1㎞ほど沖合にあり、ここにも砂丘形成された。その後、再びの温暖化で1km沖にあった砂丘が水没、海岸流や風に運ばれて、縄文前期の古砂丘の上に新砂丘が形成されたのは約1500年前のことである。

現地表下50~40mには、約2万年前の津幡川、浅野川、犀川の河川跡が埋没して残っている。その上に1万~5000年前の海の砂が累積し、内灘町の砂丘地には砂州や小規模の古砂丘が積もっている。すなわち内灘の砂丘は、古砂丘と新砂丘の二階建ての他の砂丘には見られないものだという。



「砂丘に生きる町」より














砂丘における人々の暮らしは、飛砂との戦いに明け暮れたという。加賀藩政時代は内灘の域内にあった六つの村はいずれも耕作できる田地がなく、砂丘の飛砂を防ぐために植林に力を注いだが、集落の移転が続いたという。
これらの植林は、砂丘の砂が大野川に入りこんで川幅を狭め、増水時の河北潟の水引きが悪くなるのを防ぐのが目的である。この費用は毎年加賀藩から支給され、1860(万延元)年の場合、松の苗10,000本、ネムノキの苗36,000本余りという大掛かりな植林を行っているという。このように人々が内灘砂丘との闘い、砂との戦いに果敢に挑んだことがわかる。明治以降も河北郡や石川県からも補助を受けて大規模な砂防工事を続けた。しかし、漁業を主体とする内灘村では、不漁の時は砂防工事の負担が大変で疲れ切っていたという。







「砂丘に生きる町」より












石川県が砂丘の植林に乗り出したの1914(大正3)年、内灘村もその年から10年の植林計画で立て、毎年大金を投じて植林を進めた。この時植えられたアカシアが見事に根付いたことから各集落地の後背地で飛砂が防がれた。他地区でも民家を覆うように竹林が生い茂り成果を出すようになった。
内灘村の地道な植林が功を奏して、砂丘地に数百メートルにおよぶアカシアの林帯が南北に走り、念願の砂防に成功し、硬い砂地に住宅地の開発は始まったという。そして「アカシア団地」が造成され、本格的に町の建設が始まった。
























内灘砂丘の開発ともう一つ大きな事業として「河北潟の干拓」がある。津幡川や森下川、浅野川など多くの川が流れ込んでいるが、土砂の埋蔵量も置く、早くから水田を作ることが考えれていた。加賀藩主5代綱紀は、津幡町の潟端地区を埋め立て新田開発を行っている。その後も、豪商銭屋五兵衛による大掛かりな埋め立て事業が計画されたが、挫折している。しかし戦後になって、遠洋漁業の不振に加えて、食糧事情が悪化してくると、内灘の村々を含め河北潟沿岸の各町村では水田化のための干拓を求める機運が高まってきた。そして紆余曲折あったが、昭和39年から河北潟干拓本格工事が開始された。工事はまず内灘砂丘を切り開き、放水路を造った。その時取り除いた砂を運搬船によって運び、中の水を抜いて干拓地を完成させたのは1970(昭和45)年という。これにより水田理が飛躍的に増え、不振の漁業から農業への変身ができるようになったという。そして、米だけでなく畑作、酪農などが盛んにおこなわれるようになった。
下図は、河北潟干拓事業計画図






「郷土内灘」より

















干拓された後の現在の狭くなった河北潟



















現在の放水路